管理人の落書き帳
八尾市ソフトテニス協会HP 更新記録

No 更新日 内容
1 2001.6.18 協会員に公開
2 2001.6.20 カウンターの設置
3 2001.6.21 掲示板の開設
4 2001.6.25 BGM設置完了
5 2001.6.29 試合結果詳細 追加
6 2001.7.7     ホームページ一般公開
7 2001.8.10 志紀コート・教育センター体育館への地図更新
8 2001.11.29 HP表紙の更新 これからは頻繁に変わります。
メンバー達が交代で・・・今度は誰の番かな?
9 2004.4.10 婦人部公開 皆さん集まって下さいね。
10 2004.6.15 動画を載せました。ちょっとサイズを小さくして。
11 2004.10.31 チャットルームをつくりました。みんなで会話しようぜい
12 2004.11.13 練習時間をケイタイで見られるようにしました。
13 2005.3.29 会員専用ページを設定しました。
14 2005.9.25 落書き帳 BACKUP作成。(重くなってしまったので・・)
15 2011.1.20 写真公開 フォト蔵
16 2011.2.10 YOUTUBE 公開

落書き帳 BACKUP 「ある日のテニスコート」のページに保存してあります。
2013.11.15
明日は、中国オープンです。シニア60にデビューしますが、どんな相手がいるでしょうか?昨年は、福谷・直原ペアが圧倒的に強かったという印象です。対抗は常久さんでしたが、肘の故障もありいい出来ではなく、ロブで応酬していました。新開氏の出来はきっといいでしょうけど、僕が最初から締めていけるかどうかが鍵となるでしょう。今日は少しだけ体育館で練習し、明日に備えます。

2013.11.15
うかうかしていると、時間はすぐに過ぎていきます。自分の中で進度が遅いのに、世の中をゆっくり見すぎているのかもしれないなと近頃思うようにはなりました。
11.3は例年、広島県の福山市で試合があります。井ノ口杯、何回目の出場でしょうか?今年は新開氏が地元の試合があるとのことで、鳥取の福田先生と組みました。雨が心配だなと思っていたのですが案の定、12時過ぎから強めに降り雨天中止となりました。それまでに、リーグ内で一試合はできていたので、まあ仕方ないか・・と諦めた次第です。福田さんも、既に米子道から岡山道に入ったところで雨が降り、無いだろうと思いながら到着されました。既に闘争心も萎んでいたようです。二人共あまりいい出来ではなく、名古屋・京都から来た岩月・仁方越ペアに負けました。次回は雪辱したいものです。
11.8は金曜日ですが、堺の金岡公園でゴーセン杯という60歳以上の大会がありました。平日は交通が結構渋滞し、朝は思いのほか時間がかかり、着いた時はすでに開会式が始まっていました。ペアはなにわクラブの綱島さん。初めて組みます。2日前に大正クラブで、試合前だから一試合やっておこうかと、それでも2試合練習でやってみただけです。今までの新開氏と違って、ゆるくボールをつないでいきます。ですから、ゆっくり待ったり、後衛との駆け引きはしやすいです。早すぎると自分が入りきれず、後追いが多くなっていきます。うまく噛みあわせてくれると、いいのですけどね。4組のリーグ戦。皆曲者ぞろいです。3組の三つ巴となり、勝ち負けゲーム差で、我々が1位、米田・中村ペアが2位となりました。何の意識もしなかったのですが、こんなもんですね。欲を持って何ゲーム取らないと・・なんて考えると失敗します。
トーナメントでベスト4に入りました。パッキンからは藤谷・山崎ペアがファイナルで音川・中辻ペアを破って上がってきました。もつれたら嫌だなと思ったのですけど、ボールの飛んでくるところはまあ分かったので、④-2で勝つことができました。決勝はの相手は、福谷・小森ペアが④-3で吉野・東ペアを下して上がりました。決勝は、なんとなくズルズルとゲームが進み0-3です。なんとか1ゲーム取ろうと思い、殆どサイドをケアなしでクロス勝負で、サイド1本止め、スマッシュ1本叩くと、ズルズルと2ゲームくれて2-3。
ここで1本サイドパッシングにあい、躊躇したが、割り切って勝負に行きました。デュースまでは行ったのですが、しかし、また風が相手に渡ったようです。あえなく敗退しました。~~こんなこともあるかよ・・
しかし、綱島選手の配球はよくわかります。運び方はよく理解できますので、組みやすい人かなとも思います。強いていえば、打球力がもう少しあるといいですけど、彼の持ち味としては、今のままで正確さを追求したほうがいいのではないでしょうか。粘っこく続けられ、スっとセンターやサイド、ショートボールを打たれると対応に困ります。なんだか分からないうちに、負けているとは思わないうちにポイントを取られる・そんな感じのテニスですね。でも、今まで組んだ人とはまた一味違うテニスで、面白いなと思います。

2013.11.7
昨晩は住金で堤下氏と練習をしました。全日本が終わり、なかなか自分の中で燃え上がってくるものがありません。今年が終わったのだという安堵と、来年への展望がまだ見えない今では、体を癒すことのほうが大切かもしれないですね。秋の大会もいくつかあるのですが、エンジンはまだあまりかかっていません。さし当たっては、来週の広島中国オープンと茨木高岡杯、それから四日市のミズノ杯でしょうか。今年、新開氏とペアを組み1年通してテニスをしました。初めての経験です。西日本と全日本はいろんな事情から、ペアが違っていたのです。7月と9月の短い期間のあいだで調整するのは苦しいことでした。今年はそのストレスはなくて、西の感じをそのまま保ち、悪かったところは修正しながら全日本に入れました。いい感じで過ごせた一年だったと思うのです。しかし、近畿・西・全日本と全て3位に終わったのは何故なんだろうかと改めて考えます。近畿大会も足が痙攣したのですが、なぜ・あんなことは今までありませんでした。注意すればするだけおかしくなっていったのです。苦しい戦いをやって、これは危ないなと感じながら、やっぱり攣ったかというのが、今までのパターンです。それほど苦しくもなく、足も大丈夫なのに、何故…。直原さんが、55の西日本で我々とやった決勝で同じようになりました。・・何故・・と思ったことも事実です。何かコートには存在しているのかもしれません。今年は僕に風が吹かなかった。特に近畿大会はそうです。西日本と全日本はこれも同じパターンでした。新開氏は、ベスト4に入り安心して気を抜いてしまう・・と言ってたけど、そうではないなと感じています。厳しさも、テニスを追求する姿勢もないことではいけないと自分を責めました。勝つことだけが目的ではありません。勝つことはもちろん大切です。しかし究極の技術は、テニスのスピードとコントロールの正確さを自分のものにすることです。その上で、相手との戦略・戦術の頭の勝負があると思います。技術的にも自分はやはり劣っていると感じます。それを支えてきたのは、今まで戦ってきた試合の内容を記憶し、戦った相手の長所・弱点をくり返し叩き込んで相手と曲がりなりにも対等にやってこれたと思っています。新開氏の問題は自分の中にあります。僕の問題は、後衛が作ってくれたゲームの中でのことだから、新開氏の問題が解決されないとクリアーできないことなんです。僕は、彼を2試合も試合中に立ち直らせてあげることができなかった。そこが大きな問題なのです。前衛の仕事は、後衛を冷静に安心させてあげることが一番なのです。未熟だったと思います。自分も成長しなければいけません。厳しさよりも馴れ合ってやっていたのかもしれません。来年は、一段自分に厳しい自分を作り上げていこうと思います。

2013.10.30
彼について何を書けばいいいのだろうと思い巡らせているうちに、時間だけが過ぎていきました。10.18の朝、彼の奥さんから電話があったということは、彼にはもう時間がないことを意味していたのです。7月だったか、療養先に面会に行きました。彼の病名はALS。脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動ニューロン(運動神経細胞)が侵される病気です。普通に生活していて、次第に大きな神経から死滅していくのです。まず歩行ができなくなり、手が動かなくなり、いろんな抹消の神経が侵されて、体が動かなくなっていくのです。人によって進行速度やどこから動かなくなっていくかは違います。実は、私の元会社の先輩が同じ病気にかかりました。足が動かなかうなり、寝たきりになって声を出すのがやっとの状態になるまで一年でした。そこから5年寝たきりで最後は心臓が動かなくなって亡くなられました。この病気が恐いのは、運動神経以外は全て感覚はあることなのです。言い換えると、寝ていて体が全く動かない状態だけど、意識もはっきりしているのです。テトロドトキシンなどの神経毒にやられても同じ症状になるといいます。再生治療とくにIPS細胞などの進展がこの病気の治療に役立つと信じています。また、遺伝子によるものかも知れません。組み換え技術はその原因を突き止めることはできないのでしょうか? 

彼の病室にも、あまり回数を重ねて会いにいくことはできませんでした。それは、彼が良くならないことを知っていたからです。元気になるよとも元気でなとも言うのが嘘をついているようで、じゃあ、としか言えない自分がいました。
帰り際には、彼は必ず「また来てな」というのです。人から距離を置かれたりするのは寂しいことでしょう。でも、なかなか応えてあげられませんでした。弱い自分を責めても何も返ってきません。

八尾に来て、彼と知り合ったのはまだ20代の頃でした。やがて八尾市軟式庭球協会の僕が事業部長、彼が会計部長となって、年度末には、彼のうちに行き、夜を徹して報告書を作成したものです。
テニスでも、彼は素直なフォームを持ち、運動能力の高いプレーをやっていました。ずっと続けていれば良かったかもしれません。しかしそれも彼の運命です。

ご冥福をお祈りします。

2013.10.19
昨日、一本の電話が鳴りました。突然女性の声で「福田です・・」と。一瞬、頭には何も浮かばず、頓珍漢な対応をしてしまったのだと思います。「フクダ ヨシヒサの・」と言われて、すべてが急に回り始めました。
福田悦久さんは来年が還暦です。私の2学年下です。


2013.10.3
岡山に帰りのんびりしています。全日本も東西対抗も終わり、東北の風を感じたせいかもはや秋が充満しています。こんな季節に実家に帰ってきたこともなかったのです。やはり仕事を辞めて自由な時間ができたことはいいことなのか・と再認識します。ふる里は昔と同じとは言いません。住んでいる人も変わります。子供の頃は、僕たちの親の世代がもちろんこの空間の主でした。人が多かったなと思います。22戸の集落ですが、平均5人の家族でした。小さな村でも100名以上の賑わいがありました。今では戸数も家族構成人数も減っています。おそらく半分以下となり、平均年齢は70歳は悠に超えているでしょう。あと数十年すればこの村は消滅するのではないだろうかと危惧されるのです。
でも、この村が無くなるとかどうとかは、この土地や空気には関係ないことなのです。大地が誕生して以来、我々とは違う時間スケールで変化してきているのです。大地にとって我々はただの通過する風のようなものなのかもしれないです。我々にとってみれば一喜一憂する災害や水害は大地にとっては何の意味もないことなのでしょう。大地も姿を変えます。大陸さえも長い間には何万キロも移動します。地球というスケールはヒトというものとはあまりにも違うのです。

人はしかしながら、その短い人生の中で、何かを求めて生きていきます。



2013.9.30
仙台へ、9/25の朝伊丹から7:30に飛び立ちました。快晴でしたが、少し気温は下がってきています。着実に地球は冷えてきています。酷暑も次第に冬に向かって行ってます。
仙台はアナウンスでは晴れとのことでしたが、滑走路に入ると窓に雨粒が付き始めました。雨です・・大丈夫かな、台風が東を進んでいる。風も普通ではない・不安を感じる日でした。ただ、仙台空港から電車に乗り仙台駅に着く頃には雨も上がり、ホッとしたことでした。11時に集合とのことで、地下鉄で泉中央駅にそこからタクシーで会場の泉公園へ。
新開さんは前日から仙台入りしていました。会場にも早く来て既に打っています。若い?60歳の部はドームでやるということで、雨の心配はありませんが、目がチラチラします。
でもそれもよくあること。試合ではどんな条件でも対等です。自分が自己発揮できない方が負けるのです。言い訳無用、最悪の条件を想定して練習していなかった事、そこまでの覚悟がなかったということを露呈しているだけのことです。運も実力のうち、全てのものを味方にしていく貪欲さと意欲が必要とされます。
本当にテニスの好きな人は、雨でも雪でも暗くなっても、台風雨が来ても、場所を探し、テニスをしようとします。15分時間があったとします。凡人は15分しかないからテニスをしないといいます。非凡であれば、15分も練習できるからやろうと言いいます。その差の積み重ねがきっと実力の差、底力の差、その臭いを嗅ぎつけて集まってくる人の層の差となってくるのではないですか・?僕にはそう思えてなりません。その時その時の短期的な結果ではないです。長い間に血となり肉となったその歴史と時間が、人とその環境を作ります。先日、TVを見ていたら、天才漫画家「手塚治虫」の真実をやっていました。天才と言われる人は才能があるから、才能に引っ張られていると思われています。しかし、そうではないのだ・・一生懸命やっていればいつかは神が降臨するかもしれない・のです。結果だけを見れば、その過程がカットされて、あたかも才能があるものだけが成功すると思われるのです。それがわからないのでしょう。
彼が難しい仕事を人に振るとき「君にもできます、僕に出来るんだから」と言ったのだそうです。これは真実だと思います。きっと手塚治虫は、本当にそう思っていたのです。
僕も、どうしたら上手くなれますか?、と質問されます。でも、笑ってしまうのは、同じことを言い続けてきたのです。そう言うと、皆さん「そんなあ」といいます。
でも真実です。僕のことをよく知っている人は、逆に僕に何があったのか?と思うのでしょう。でもでも、何もないのです。
たまたま、昔からやっていたことを続けていたら、今のようになってしまった、だけのことです。そして、もっと言うなら、技術など昔とほとんど変わらないのです。
僕が裏面を使ったり、フローができたりすると、才能だね、と言われます。しかし、昔は、横着をするなとか、ポジションが後ろすぎるから、フォローしかできない・とか言われたものです。しかし、勝てるようになると、素晴らしい、天才的だ!とか、それも大切だね、とか肯定的です。
技術とはそういうものです。皆さん、自分の持っているものや、自分ができることをやり通せばそれが見本に、スタンダードになることもあります。ただし、納得させられる理論武装はしておいてください。いろんな自論を持ってる人は大勢います。しかし、根拠のないものが多いのです。運動学的にもテニス学的にも、力学的にも正しくなければ、それは理論とは言えないのです。独自の夢想・空想論だと言っていいでしょう。その差は何か・・考えてみてください。

やっと、袴田・菅野ペアと試合ができる!プログラムを見て感じました。できればトーナメントで当たりたかった・もはや彼等と試合できるチャンスは5年後しかありません。
お祭りムードですが、そこは真っ赤に燃えていました。
試合は少し和やかそうに見えますが、決してそうではなく、こちらがジャブを打ちます。これも1本目に袴田さんがセンターパッシングのネットで少し甘めに入ったボールを仕留めたことから始まります。考えている間にクロスポーチ、上げてきた頭越しをスマッシュ、サイドを空けておいて誘って取る・・最初の2ゲームは巧くいきました。
ここから、菅野さんが動きます。クロスポーチにボレーではなくスマッシュのような迫力で!それに気圧されて新開選手の気が少し引きました。見て打つようになったのです。慎重になったというのでしょうか・しかし、それは全くテニスが変わってしまったといっていいくらいの気迫あふれるポーチでした。普通の人に、そんなことをされると、今度は抜くぞ、と鼻息荒くやり通します。でも、今は引いている・・その違いは何でしょう。やたら近づけないぞというバリアーを張られてしまったのです。王者の貫禄を見せられた感じなんですかね。前衛はあまりわからないのです。もしも前衛が引いたら、既にテニスは終わったも同じです。
後衛も同じでしょう。後衛が引いた途端にボールの長さが変わります。見た目には同じように見えても、圧力は変わってきます。そこがテニスの流れが変わる潮目なのです。
それを自分で感じることができれば、前衛は逆に壊しにも行けます。今回、私はそれを感じたのかもしれませんが、強烈な判断をすることができませんでした。前の、全日本準決勝もそうでした。まだまだ未熟です。
来年の課題はそれです。潮目を読み取り、逆に自らもう一度潮目を作ること、これが私の前衛としての最終の仕事だと思います。

2013.9.26
全日本シニアが終わって2日、今度は仙台で「超壮年東西対抗」です。9/23、24はそんなわけで、通常は体を休めるのですけど、調整で橿原クラブと吹田高校へ出かけていきました。橿原クラブではほんの一時間ほどでしたが、サーブレシーブと1ゲームやらせてもらい、体が解れたのを実感しました。あのまま休んでいればきっと体が固まってしまったんだろうと思っています。9/24は吹田高校へ。3年生が引退して部員が少なく、活気はないですけど、その分彼らは僕と接する時間が多いのです。そのメリットを活かして、テニスが楽しくそして上手くなって欲しいいのです。ここでは3名相手に一時間ほど、イレギュラーの多いコートで行いましたが、これもいい練習になりました。

2013.9.23
全日本シニアが終わりました。結果はシニア60になって最初の年でしたが、3位という成績です。参加が124ペアと例年になく多いチーム数でした。交通の便がいい神戸だと、出場してみようという気になるでしょうね。
ただ、コート必要数が多く、運営する側は大変でしょう。今回も1日目は2回戦しか消化できませんでした。32本まででした。例年は16~8本まで出すので、次の日は本当によく残ったという緊張感とさあ決戦という感覚があったのですが、今年はまだ緩やかな感じでした。
ただ、1試合目は山口の真鍋・原口ペアです。眞鍋選手とは過去2回戦い2敗です。分が悪いのですけど、自分を信じてやろうと思っていました。新開氏も調子いいし、今年の目標は勝つことですから。サーブから入りました。1本目、アタック気味のボールがワイヤーに当たりネット。これが全てでした。次から側に来るボールが少しだけ緩いのです。普通の人よりも速いですけど、普段練習している人たちの方がもっと速いのです。割と効率よくポイントが取れました。新開氏の調子もすごく良いのと、何よりも気力が充実していました。
この試合で少しレシーブが打てなかったのが気になりましたが、その分、ボレーの感覚が非常に練習時からよく、自分でもいつになくよく見えているというのは感じていました。
あとで聞けば、眞鍋さんも結構練習が出来ているとのことなので、自信を持ってもいいのかな・と思ったことでした。④-1で勝利です。
次は岡山の宮崎・芳上ペア。宮崎氏はやはり同年齢、芳上さんは大学時代、同じ理工系学連でやっていました。群馬大工学部の時、芳上さんは早稲田で同じコートでやったようです。宮崎氏はサーブとバックハンドが上手く、芳上さんはボレー・スマッシュ共にキレがいいです。宮崎氏のフォアに打つことと、芳上さんのパッシング中心で攻めるように決めて入りました。
途中から宮崎の氏サーブが入りだし、危険な感じになりましたが、それまでに3-1にしていたのが大きく、④-1で勝ちました。
いよいよ準々決勝、先週鳥取で戦った福谷・直原ペアです。ここが大きな関門です。作戦は、福谷さんはつなぎ主体で来るだろうから、コントロールをできないくらい打てばいいと。新開氏は直原さんが中央に立って取りに来るだろうから、サイドパッシングで抜いてしまおうと言います。それでいいよと決めて入ります。大体、イメージ通りの展開でテニスを進めることができたと思います。3-1から少し気持ちが緩んだのか4ポイント連続で落とし、3-2。ここで、次のゲーム1本目のサーブで福谷さんの頭越しロブをスマッシュできたのが大きかったです。2本目パッシング。3、4本とファーストサーブが入り、押し込んで1本。最後は、僕の目の前のボールを目をつむって直原さんのサイドにうち通りました。勝利です。④-2。
第1ブロックの山からは吉野・東ペアが客坂・宇崎ペアに負け、次の小澤・鈴木ペアも負けました。近畿優勝の客坂・宇崎ペアが相手です。予想は、前2ペアのどちらかなと思っていました。勝負事はやってみないとわからないものです。客坂氏も鋭いバックハンドと引き付けるフォアハンドでロブを多用して勝っていくテニスです。
神戸山手大会でこのペアに④-0で勝ち、僕は客坂氏に勝率はかなり高い方なので、少し心に隙間が出来たのかもしれません。逆に彼らは、雪辱がありますから気力十分でしょう。
1ゲーム目は割と思ったような展開で4-1でポイントを簡単に取ったのも良くなかったのかもしれません。次のゲームを3-0から落としたのが間違いの元でしょう。なんとなく、新開氏の声が無くなり、ボールを打つタイミングが遅くなったような気がしました。あとで聞けば、宇崎さんを気にしてボールを落として打っていたようです。攻めるのでなく、かわす方向に気持ちが行ってしまったのでしょう。上もあるよと言ってやればよかったのです。打つことで勝ってきた今日のテニスを変えたくなかった。だから、上げろとは言わなかったのですけど、あとから考えると間違ったかな・・チェンジオブペースも必要だったかな・・と、反省が出てきます。結局焦りでポイントが取れませんでした。1-④で敗北です。
今年の挑戦が終わった瞬間でした。
決勝は、袴田・菅野④-3客坂・宇崎でした。見ていても袴田さんは決して調子が良くないです。ミスが多く、コースも単純でした。客坂ペアが勝つんじゃないか・と思わせる試合でした。しかし、最後勝負に慣れたものの勝利なのでしょうか?袴田・菅野ペア4回目の優勝です。おめでとうございます。

2013.9.13
毎年、鳥取で行われる久松クラブ杯にはもう参加して何年になるでしょう。
最近は5歳毎となり、若干クラスごとの参加数は少ないですけど、全体としては毎年大きな規模を保っています。原田さんはじめ久松クラブの皆さんの情熱が伝わるものです。
この大会の位置づけは、全日本シニアの調整です。今年は新開氏と全日本も行くので、丸亀・久松杯で調整をしようと思っていたのですけど、丸亀が雨で中止となり、この大会しかチャンスがなくなりました。
朝起きると、雨が降っています。それもかなり強く。ただ回復傾向とのことで、コートへ。ラリーをしていると雨が上がってきました。
オムニコートなので心配はしていません。特にこの布勢公演コートは、かなりの雨が降っても水が浮かないのです。よほどしっかりとした基礎・排水設備を作ってあるのでしょう。素晴らしいコートです。
今回は、一週間テニスをしていなかったので、少し調整に不安がありました。試合が始まると、やはり少し勘が狂っています。これは少し大変だと思ってましたが、今日は新開氏がすごい当たりで、誰も止められない勢いでした。
決勝は福谷・直原さん。普段は、直原さんに翻弄されるのですけど、今日は全て先を通して行く、あるいは逆を攻めきるといった常に先攻状態でした。
あまり参加する暇もなく終わった印象です。僕と福谷さんは互いに一本ずつ取り合ってタイというところでした。
新開氏がこの当たりを維持してくれれば、相当いいところまで行くと思いますが、試合はやってみないとわかりませんからねえ・・


2013.9.5
今週は一週間、岡山で過ごします。月曜日に帰りましたが、ずっと雨が続いていました。台風が2つ連続してやってきて、折しも少し早い秋雨前線の居座りで雨が多い秋の始まりとなりました。しかし、昨日の雨はかなりのものでした。一日中ここ美作市には大雨・洪水警報が出ていました。山の中腹にある我が家は家の両側を谷水が勢いよく流れます。木の葉が家の樋を塞ぎ雨水が激しく落ちてきます。油断すると逆流した水が家の中や母屋と長屋のあいだの通路にやってきます。少しずつ見回りながら異常を修正していきます。結構気を使います。
誰もいないときは母ひとりでは不安だろうな・と思いながら。
いつもと違う気象が日本を襲っています。この土地は大丈夫なんだろうか?と考えるのです。我が家の裏山には先祖の墓地があります。朽ち果てて、石の文字も読めないものが多くあります。もっとひどいのは崩れ落ちてもはや墓石かただの石か不明な形状のものもありますが、その位置と石の大きさから墓であろうとお参りをしています。字が判別できるもので一番古いものは寛延、宝暦くらいです。時代は西暦1750前後ですから、この頃から一応この家は立て替えたにせよ裏山が崩れて、倒壊したことは無いようです。これからはわかりません。今まで被災した人達は、こんな雨にはあったことがないといいます。気温が上がり亜熱帯化していく日本はこれからの時代が、刻々と変化していく誰もが経験したことのない世界に入っていくのかも知れません。
8月はテニスの練習が出来ているのですけど、実戦がない。今週末は鳥取で久松杯です。これが最後の調整です。あとは自己を厳しく、2週間を過ごすことです。

2013.9.4
韓国大統領杯が終わってから、8月は24日の丸亀近県大会でしたが、残念ながら雨天中止です。朝早く起きて行きましたが、岡山の吉備インターまで行ったところで電話がありました。これで一ヶ月試合がないのはシーズンでは珍しいことです。少し怖いのは、今遠ざかっていることの緊張感のなさです。僕は試合で緊張感を高めていくのと、忘れていたちょっとしたギリギリの部分をその緊張感の中でしか修正できないことを体に叩き込んでいくのですけど。人間は賢い動物かもしれません。ゆっくり考えて答えを出すのはいかなる生き物よりも優れているでしょう。しかし、では習慣的な判断力はどうでしょう。瞬間的な思考力は他の動物に優っているでしょうか。危険が迫ったとき、一瞬の判断と行動が人間は優っているのでしょうか。それはきっと訓練によって勝ち取らなければならないものではないかと思っています。人は馬鹿な動物です。すぐ忘れます。同じ過ちを繰り返します。同じことをやったとき、ああまた・と思うでしょうが、その時だけです。一ヶ月もそのことを覚えている人はいません。だから、繰り返し繰り返しその同じことを繰り返さないよう、体に覚えさせるのです。今、その練習ができていないことが僕はとても不安なのです。

2013.8.3
今年は7/26~29の4日間韓国の安城市で開催された大統領杯に2回目の参加をしました。4年前の大会は雨で参加も少なくどちらかというと安易に勝ち上がった印象でした。しかし今回は我々も年を重ねていますし、韓国の事情も変わってきていますから以前と同じ気持ちでは勝てないだろうな・と思いながら韓国入りしました。大阪からインチョンへ、早いものですね1時間ちょっとで着きます。飛び立てば簡単な機内食・・食べ終わると即着陸態勢です。日本国内の旅行となんら変わらないものでした。入国審査も全く問題なく数秒で通過。日韓の難しい問題は・どこかに行っているようです。今年は本当は少し参加を危ぶむ声もありました。日韓、日朝問題がかなり大きく報じられていた頃でしたから。インチョンからバスでアンソンへ(安城)。チケットを買うのにアンソン、アンサン?と聞き返されましたが言われていたバスターミナルの番号からスペルではアンサンでしたがアンソンと読むのだろうと勝手に解釈して購入?金額が安いので・ん・と思いました。新開添乗員がHPダウンロードした用紙を見せると、驚いた顔で、アンソンでさっきのチケットは間違いと言ってくれました。17300ウォン払って2時間半の高速バス旅です。結構ハードな運転ですが3列シートの革張りのいい座席でしたので快適でした。アンソンではシムさん、カンさんの二人の女性が車で出迎え。ホテルまで案内いただきました。町は前回のムンギョンとは異なり少し開けた感じでした。韓国も4年前とは違い、地方都市でもマンションが立ち並びソウルのような高層群ではないですけど綺麗に整備されつつあります。景気が悪い・・ということはあまり感じられない雰囲気です。

今回、相変わらず韓国語ができないので、試合会場に来てもあまり自分たちの試合の順番などがわからないで苦労しました。前回のムンギョンと違いここアンソンは、大きな会場ひとつに集約されてましたので、まだ苛つくことは少なかったのですけど。アンソンの会場は、ソフトテニスのためのドームインドアコートです。インドアといっても下はアンツーカで大きな屋根が被せてあるといったものです。メインドームが6面、サブコートが4面。我々はサブコートでしたが少し照明が悪く見にくいなという感じです。ドームを支えるアーチ状のパイプが色も白で入り組んでいてボールが消えるのです。しかも下はカチンカチンのアンツーカ。日本のアンツーカは少し粗めでまだボールは速くないのですが、ここは違います。まるで氷の上でやってるような速さでボールがやってきます。見にくくボールが速い。これが今回の本当の敵だったかもしれません。
1日目は団体1回戦のみでした。男子も女子も難なくクリア。その日の宴会は楽しい酒でした。2日目は朝一番とのこと。準決勝はカンさんのご主人のチームとのことでした。4本シードでしたし、一度も見たことがない相手なので気を入れていかないといけないな・と言っていたのに、なかなかうまくいきません。一番の新沼・鈴木ペアは危なげなく・・でもなく、やはりスコア以上に厳しい戦いでした。鈴木さんの上手さで勝利でした。二番手は楽勝と思われましたが、落として1-1.三番勝負となりました。我々の相手はやってみると殆ど技術はうまくなくて、これは楽勝と思ったのですけど、3ゲームとったところで悪い癖が出てズルズル3ゲーム取られファイナルへ。本当に冷や汗が出ました。なんとか凌いで2-1で勝利でした。
決勝はテグ市でソン・ヨンチョルチームです。ソンさんとはなかなかできないのでやらしてよと言ったのですけど、あちらも勝負にこだわりオーダーを変えてきました。3番で出た我々は0-2からで勝負は決まってましたが、0-3で負けるわけには行かないと、元気を出して行きました。
新開氏は、相手によって気合が違います。まあ、これがなければもっとたくさんの試合を取りこぼすことはないのでしょうが・・今日は、本当に最初の一本目から一発も遊びのない試合です。この試合ができるなら、どんなタイトルも難しくないのに。相手はちょっと前衛力が弱いなという印象でした。④-0で勝利でしたが、チームは1-2で負けでした。
団体戦が終わるとすぐに個人戦が始まります。そして40、50、60の部と女子もあり、なかなか全員の試合を見るのは難しいことでした。一試合目はまあまあの相手でした。しかし、なんとなくしっくりいってません。④-2で勝ったのですけど、内容は良くないものでした。半分は相手が精神的に潰れてくれていたことが勝因です。こんなことではいけません。
準々決勝は第3シード。昨年も3位だったようです。ダブル後衛のようですけど、硬式もやってるのでしょうか前にも出てきますし、ドロップショット的なものも多用します。
後衛サイドもまだ若く50歳成り立てのようで、しかも左利きでかなりのボールも打ってきます。手ごわいなと思いましたが、案の定もつれます。ただ、一ゲーム目を簡単に落とし、2ゲーム目は取り、3ゲーム目をリードしながら取りきれなかったのが悪かったですね。サービスが相手は良くてポイントの時も入れてきます。非常に速く、私のレシーブイージーミスでデュースになって落としたゲームがポイントだったでしょうか。2-④で敗れ、ついに今回もヨンチョルとやる機会はありませんでした。
このペアは次の準決勝で④-3で新沼・鈴木ペアに勝ち、決勝まで行きました。勝負に対する集中力とファイトが凄いなと思いました。技術だけではないのです。気持ちがボールを入れてきます。これを我々も忘れてはいけません。
決勝はヨンチョルとの戦いでしたが、0-3まで行き,コロかなと思ったら、そこから3ゲーム取りファイナルへ。ファイナルは7-3くらいでしたが、これはヨンチョルの油断なのか彼らの実力があるのかどちらとも言えません。ヨンチョルの優勝でしたが、今回は少し寂しい大会でした。

この日、ソウルまで帰らなければなりません。既に17時です。ホテルに帰り、銭湯に行きました。韓国にも銭湯があるのです。大体日本にあるものと似ています。高速バスに乗りソウルへ。雨も降りホテルに着いたのは9時半でした。焼肉を予約しているとのことで、その店へ。予約していたので、断るわけにはいかなかったでしょう。ただ、10時ころから焼肉を食べるということはないので、胃がもたれるかな・と思いながら、それでもいっぱい食べたのです。
ホテルに帰ると、チェックイン。ここで予想もしないことが起こりました。部屋は二人と聞いてました。まあツインだろうと部屋に入ったところ、ダブルです。男二人でダブルはないだろうと、フロントへ。しかし、フロントは、それは私の役割ではないと冷たい返事です。それならフロントは何をするんだと?思ってしまいますよね。東横インですから、もうちょっと日本人向けのサービスをしてもらえないといけないですよね。ヨンチョルは、韓国では男同士ダブルは普通だよ、といいます。お国柄ですね。仕方ないので、あるだけ毛布を持ってきてといいました。僕は床に毛布を敷いて寝ることにしました。まあ意外とそれでも寝られました。試合と長いバス旅と夜の焼肉とトラブルで疲れ果てていました・・・。

次の日は貸切バスで、ソウル市内観光。まずはキョンボックンへ。ここは韓国の王様の居住地、政治を司り、全ての象徴でした。韓国歴史ドラマで王様が住んでいるところはここなんだなと思いながら・・。前回来たときは、時間が少なくここには来ていません。入ってみると本当に広い敷地でした。破壊された宮殿です。今でも発掘調査が行われていました。どんどんつ修復していってます。この修復費用も日本は出すべきでは・・などと思いながら。この王宮殿の正面に総大理石の日本軍司令部をぶち立てたのでした。それはつい最近まで建っていました。博物館や大学などとして使われてましたが、日本からの脱却・不平等契約の撤回などを求めて、撤去されました。その費用は日本が出した・・のでしたかね。
日本の皇居にGHQがペンタゴンを作っておいたとして、それをずっとそのままにしているはずはありませんね。それと同じことでしょう。韓国の王朝は崩壊し、その末裔はいるのかいないのかわかりません。日本はかろうじて皇族は残っています。今や国家の財産となっているキョンボックンですが、国民の心としては象徴的存在に違いないです。
我々は、韓国にも中国にも旅行します。しかし、どれだけお互いの都合で作られた歴史だけでなく、本当の真実の歴史を知っているのでしょう。一番知りたい歴史は、ルネッサンスではありません。本当は現在史を学ばねばならないでしょう。太平洋戦争に至るまでの経過はどうだったのか、何故日本は開戦したのか、戦争をしなければならなかったのか、自ら戦いを仕掛けたのか、そのようにもって行かされたのか。戦争終結に当たり、なぜアメリカは原爆を使ったのか、日本の国を何故このように扱ったのか、などなど。
我々は、勉強したから知っていると思い込んでいるでしょうが、本当にそうなのでしょうか?結果の形しか知らないです。その羅列をされたところで真実は見えてきません。ご都合主義なのかもしれません。現代史を教えると反発があるのかもしれません。一行や一文字であれくらい批判を浴びる教科書ですから。
次は韓国大統領の官邸へ。キョンボックンから真っ直ぐ北へ王宮を突き抜けてその後ろに官邸があります。その後ろは御神体の守りの北岳山が聳えます。
韓国の王様の歴史は、この山と共にあるのですね。
買い物が終わり、食事をして、17:50の飛行機ですが、皆15:00くらいに錦浦空港へ。時間を潰し、東京方面の皆さんとの反省会に付き合い、秋の福島でのイベントなどへの話などをしていると、思ったよりも早く時間が過ぎました。
一時間半で関空へ。日本は暑く、また日常が始まります。

2013.7.23
西日本シニアが終わってからもうかなりの時間が経ちました。カレンダーを見てみるともう1ヶ月近くなります。最初の2週間は前半の激しい戦いで疲れた体を休めるところで費やしました。まあ、やろうと思っても気持ちが弛緩してしまい体はいう事を聞きませんでした。思った以上に体は消耗していました。筋肉は固く張り、背筋は指を入れると痺れがでます。首筋も凝っているのが分かります。緊張している時は気にしないでいられるものなのですね。心技体一体化して僕たちは均衡を保っているのですね。緊張をする目標があるので、それが終わった時ギャップをしることができたのでしょうね。ボクサーが一試合終わると何ヶ月も休養を取るのは、僕たちとは比較にならない緊張感と集中を行っているからなのでしょう。
7/13~14は予てから計画していた幼稚園・小学校時代の友人たちと鳥取皆生温泉から三保ヶ関の料理民宿に行き同窓会をしてきました。岡山の古里に住む友人は、定年になったらゆっくり温泉に行って60年を洗い流そうや!と言ってましたがやっと実現したわけです。テニスを知らない頃に知り合い夏の遊びは釣りと川遊び、三角ベースや素手で野球をやったりしてました。バットは竹を切ってきて、、ボールは今のソフトテニスのボールでやっていたものでした。当時そのボールがテニスというスポーツで使われていたことさえ知らない頃です。ユニフォームなんかとんでもなく皆普通の格好でした。ジャージもなくすぐにズボンの膝が破れ大概の子供はひざ当てをした本当にみすぼらしい格好でした。でも誰も文句も言わず、楽しく過ごせていました。社会自体の経済状態が満足いくものでもなくTVもなければ町には映画館の一つもない田舎町でしたが・・でも今では当時は街が活気に溢れていたと思い出すのです。どこの家もひとつの家族構成をしていて町自体も発展する勢いがありました。時は高度成長時代、今の中国とか東南アジアの新興国のような下ることや停滞することなど考えられない時代でしたから。黎明期であってもそういう上り坂を感じていましたし、やれば結果が付いてくる時だったのは確かです。今のように停滞か後退か・やっても報われることの少ない子供たちは一体どんな気持ちで塾に通い高校大学に行き勉強をしているのでしょう。三丁目の夕日は都会の下町での庶民の様子ですが、田舎でも心情的には似たようなものがありました。ちびまるこちゃんの世界が女性の目を通した少し田舎町の三丁目の夕日でしょうか・
僕たちの子供時代には知らないことが沢山ありました。今では当たり前の事が当時はさも不思議なこととして報じられました。話題にもなりました。イマジネーションが豊かな日本人は漫画も小説も映画も全て自分の生活に重ねて理解しようとします。そして同時性を大切にします。あしたのジョーの漫画1本で週刊誌が即時完売になり、喫茶店はその話でもちきりとなり。果ては青山墓地でヒーローの葬儀が行われたりしたこともありました。ヒーローも日本では大概が悲劇の末路を辿ります。ハッピーエンドで終わるUSAとはどうやら違うもののようです。
我々は通り抜けてきた社会の中で一線を引きました。それは必要なことでもあります。時代はその次代を担う世代が責任をもって作り上げて行かねばなりません。引き際は大切です。引けない人間は次に進むことができません。作り上げたものにしがみついていることがどれだけ人の人生を狂わせているかを知るのはきっとずっと経ってから・あるいはその座を否応なしに奪われた時かもしれません。権力というのは儚いし虚しいものですが人はどうしてそのようなものが欲しいのでしょう。支配する願望なのでしょうか?
これからはあまりそういったものに左右されず生きていけると思うのです。彼らとはその手始めなのかもしれません。もちろん今まで何も思わず付き合ってきた友人たちではあるのですけど。
その後はしばらく岡山の実家で母親・甥二人と過ごしましたが、しばらくじっくりと実家の周囲を見回ってなかったのですけどそれは荒れたな・と思ったものでした。地味な努力ではあります。山を刈り木を切り根を掘り起こし畑を作り、自分たちの価値のある作物を植えて食しあるいは金に換えるものの生産をしてきたのは。母や父が作っていたお茶畠も桃の木も栗の木も殆どありません。僕たちの世代がもう戻ってこないと思った両親は畑を山に戻しました。何代にもわたって守ってきた価値を捨てざるを得なかった彼らの苦渋は分かりませんでした。今は失ったものの大きさとその土地を守ってやれなかった自分に、その価値の貴さを分かってあげられなかった浅はかな自分に恥じ入るばかりなのですけど。とりあえず今は休耕田になっている土地の草刈をし、自宅母屋周りの道や周囲の草を刈り何とか見られる形にしましたがまだまだです。一日少しずつ粘土をこねて少しずつ形を整えて行くように土地は慈しんで手をかけてやらなければ育っていかないものです。別荘地の持つあの空虚感と非存在感は慈しまれていない土地と人との愛情の深さの残博さなのでしょう。
7/20は朝から今治へ。今年は今治瀬戸内海大会へ初参加しました。家から岡山に向かい山陽道から福山を抜けしまなみ海道へ。今はここを抜けるのに一時間で通れます。島を多く繋いでいるので最後の大三島橋は大きいなと感じましたが瀬戸大橋や大鳴門橋を見てしまうとあまり感激はありません。
今治に入ると何とも懐かしい空気が包み込んできました。街並みや商店の看板など懐かしいものがたくさん残ってます。市役所前のホテルで阿部さんと待ち合わせ。僕たちの時代は愛媛県は強く阿部さんも今治工業から愛知学院大学へ、時田さんとインカレを取ったのはよく知られています。その後輩に津吉氏、宇高氏、藤野3兄弟などと続くものです。僕の大学時代は新居浜西の矢野氏と同期、彼も有名選手でした。彼の後輩の津乗氏と有名選手が多い時代と名門地区でもありました。僕が行きますと阿部さんに連絡したところ実にご親切にしていただきましたし、夜は地元の6名の方々と今治名物の焼き鳥で歓談させていただきました。男気のある方々に囲まれて爽やかな食事会でした。今治、愛媛の皆さんありがとうございました。
次の日は試合ですがメンバーはかなり強烈な中四国のメンバー達。同じブロックには柴田・桑田ペア。柴田さんには45の沖縄で負けています。気を引き締めて④-1、リーグを上がると黒田・片山ペア。いつもファイナルの試合が多いのですが、この日黒田氏はサーブも入らずネット・アウトが多く珍しく④-0で勝てました。初めてですね。準決勝は男座・井下ペアです。前の試合であまりいい出来でなかったので少し安心して入ったのが良くなかった。男座氏は逆に向かってきています。アウトのボールがネットインしてインに。気迫で負けました。1-④
同じ過ちを何度も繰り返す・・バカな我々です。まだ修行が続きます。
2013.7.7
昨晩は箕面クラブの山森さん主催のテニスを楽しむ仲間の集い・・なる会が有り参加しました。40歳初めくらいから65歳くらいまでのシニア男子が集まりましたが、南の方のメンバーと違い川西など普段会わない人たちとの話もまた新鮮でした。平均的に若い方が多いので私とか高田さんは少し座布団の上に載せられているような感じを受けましたが仕方のないことなのでしょう。シニア60となった今では45-55の前期シニアと少し違うくくりですし隔世の感があります。。成年の後半から言うと20年も差があるのですからそれは仕方がないことでしょう。
若い人たちは(あまり若くはない・・ですが)僕のことをなにかとんでもない・と思われている人もいるようなのですけど、そんなことはありません。学生時代はどうでしたか?などと問われると、みなさんの足元にも及ばないヘナチョコでした・と答えると、・・またまた、そんなことを・と言われます。仕方がないので中学からのテニス歴を言うと、そんなことがあるのですか?!と驚かれるのです。
それはそうです。本人が今の自分を理解できていないしこれは本当に自分なのかと思っていますが、まあ全国の学生時代に実績を持たないけれどもテニスが好きでずっと続けている人たちに、必ずいいいことが一回くらいは訪れるから・と言ってささやかな目標になっていけばいいいのかななんて、最近では思います。でも前衛だからですよ、こんなことが言えるのは。後衛はホントにテニスの80%以上を担っています。だからなかなか叩き上げだけでは頂点に行くことは難しいんじゃないかなと思います。でも・・やはり広島の井場さんとか30過ぎからテニスを始めた人もいますよね・・人はそう考えると、スタートやフィニッシュはわからないものなんじゃないかと思えます。勉強でも同じことが言えますよね。学生の時当てられると真っ赤になってモジモジしていた人が社会人になって見違えるような自信家で英語なんかもペラペラであったり、逆に全てに非の打ち所がなかった人が目立たない人になっていたりしたりします。何かがあったのでしょうがそれは誰にも分からないことです。要するに、こうしたいと思った時がスタートでもうやめようと思った時がフィニッシュです。そして完成するスピードは人によって全く違うということです。頂点に行ったと感じた人はそこでやめるかもしれません。実はまだ3合目かもしれませんのに。中学でうまい子に・高校へ行ったらどうするの・と聞いたことがあります。まあ上手いといってもそのレベルなんですけど、いとも簡単に、・もうやり尽くしたんで高校へ行ったら硬式やります・とかバスケやります・とか平気で言うんですよね。そうかなあ・と言ってあげるんですが、それだけソフトテニスに魅力がないんでしょうかねえ。
僕はいろんな事情で学生時代まともにソフトテニスを続けたことがなかっただけに、やり残した感が強くて再開したときはなんて未熟なんだろうと落ち込んだものでしたが。それでもその時暖かく一緒にやろうと誘ってくれた当協会の福西さんには感謝をしています。でも勝てなかったですね。もちろん未熟だったので仕方ないと今では思います。当時は若かっただけに爆発したりもありましたね・・
そんな話を続けているとあっという間にお開きになりました。明日からもまた精進だねと言いながら、高田さんと帰途に着きました。

2013.7.1
西日本シニア選手権が終了しました。結果は3位。またしても目標には届きませんでしたが、今回のテニスでの自分の内容には今までとは違う少しは進化して行っている自分を感じることができて、いつものようにただ負けたあとの悔しさと空虚感を余り引きずらなかったのはある意味での進歩かなと思っています。
今回は、トーナメントプログラムは60の部に関して言えば非常に公平に実力を見極めて作られたものであったように思います。昨年の実績を十分考慮し、ペアを崩されたところも一定のルールで組み込んでありました。結果を見ると各リーグも大体トップの選手が上がってきています。それだけ選手の力を把握されていたのでしょう。
best8まででシード落ちは何ペアかありましたが、それは仕方がないことかもしれません。我々の山のシードは客坂・林ペアでしたが、この日客坂さんが絶不調・・今まで見たことのないテニスをしていました。サーブも3本ダブり、フォアもバックも殆どネット・アウト。方や香芝の谷口さんはミスがほとんどなく見た目にも勝敗は明らかでした。プレッシャーなのかもしれませんし体調なのかもしれません。テニスは恐い。。いや勝負事は皆そのような要素を含んでいるのです。あらゆることを想定して乗り越えなければなりません。知った上ですべてを克服できたなら、それこそが真のチャンピオンとして称えられるものでしょう。
今回、そのシード落ちの様子を新開氏と見ていて、改めて怖いと感じ自分に負けないことを確認しました。相手がどうであれ自分達を信じ合って技術を信じてやり通す・そのことが必要なんだと。今まで新開氏は自分の打球力にも体力にも技術にも自信が大いにありました。自分さえちゃんとできれば・自分の調子が元に戻ればどんな相手にでも勝てるんだという自負があったと私には思えましたし、自分でもそう言っていました。しかし60歳を目前にした頃からどうもそれだけではないぞと感じたようです。自分の足も以前ほど動かない。ボールは思ったほど走らない。一瞬の判断を目が邪魔をする・・などなど、不安な要素が彼を押し包んでもがいていたのを分かっていました。同時に3年くらい前から私はその今までのテニスをするだけではきっといずれこの日が来ると思い始めていました。そこで昨年、一昨年と自分の動きを少し前面に出すテニスをすることも必要かと、動き始めてみたのです。きっかけは新開さんでなく小早川さんでした。彼は丁寧なテニスでボールを回し相手の陣形を攪乱します。動きが出来た時には必ず隙と死角が広がるものです。そこを正確に攻め込んでいくテニスです。彼は余りボールを見せないで体ごとぶつけていきますから消耗も激しく、小さいフォームのためボールの重さはそれほどある方ではありません。強打者には打ち回せず苦杯を舐めることがありましたが、それでも持ち前の根気良さと正確なボール回しで勝ちきっていきました。それが一昨年くらいからは体力の低下に伴い苦しいからでしょう・無理に攻める展開が多くなり今までとは違うミスが出始めたのでした。今までは本当に後衛におんぶされたテニスをしていたとその時は感じました。しかし、逆に取りに行くと隙が広がり却って逆効果の試合も多く出てきたのです。小早川・高原でも新開・高原でも同じ現象が出始めました。それは全て私が原因なのでした。そして私たちのペアとしての問題も浮かび上がってきました。それはコミュニケーション不足ということです。どちらの後衛も素晴らしいテニスマンです。言わなくても解る・そういった思い込みが良くないのですね。テニスは変化していくものです。技術で変化することもあれば体力で変化することもあるのです。野球やサッカー、バレーやバスケットこういったスポーツとテニスの違いは決して交代ができないということなのです。それらスポーツは何名かを交代させることで常に技術は別として体力的にできるだけ高い位置を保とうとすることができるのです。テニスは体力特に持久力(瞬発力を維持しながら)が重要なスポーツです。体力が限界に近づくと頭も朦朧として思考力が落ちてきてパターンが単調になってきます。そこからひと頑張り・これが重要なのです。お互いの状態を知りカバーし合いながら自分の技術を最高に発揮するように持っていくことがソフトテニスでは重要です。もしかすると年齢が上がるにつれ最も大事なことではないでしょうか?
昨年、彼ら二人とペアを組みながら自分の攻撃ができることを自分なりにするようにしましたが、一人で動いても何か違うと思っていました。
今年は60の節目の年です。同級生の新開氏と組みはじめた途端、60のクラスでなかなか勝てない時期が続きかなり二人共落ち込みました。でもお互いに乗り越えるようにお互いの欠点をさらけ出して改善するべく練習したつもりで、この西日本前にはなんとか自分なりの目標はそこそこできたぞと感じたものでした。今年の大阪近郊の試合は福谷さんに組んでいただき、なれないペアリングから次第にコースとタイミングが合うようになり後一歩で近畿大会も・というところまで行きました。福谷さんのテニスの柔らかさに落ち着いてテニスができるようになったことも大きなことでした。ただその時は、私の太陽との戦いに負けてしまったのも残念なことでした。今回は私のプログラムに入ってましたので体調も崩さずできたことは次の全日本への大きな自信にはなりました。また、直前の精神的な回復が自分にはとても大きく直原さんの懐には大きなものを感じています。前日、橿原クラブで。小早川・中村・新開/鶴岡・田中・堀内・奥田・高原と4時間ばかりハードな練習をしたのも新開氏には良かったようです。ビデオに撮り夜徳島の皆さんと話し合ったのもいいことでした。人は話す動物です。そして聞く動物でもあるのです。誰でも納得できなければやれません。そこまで話せないと上手くはいかないものなのだとやっと気付きました。
トーナメント一回戦滋賀の福島・浜口ペア。浜口さんは新開さんの中学の先輩。福島さんは何度も対戦しファイナルが多い相手です。積極的に取るつもりで動きに入りました。新開さんの一発目のあたりは素晴らしかった。今日はいけそうだ・と思った瞬間でした。ボールを追い回して④-1。次の客さんに勝った谷口・山本ペアはよく大阪近郊の試合では私は当たりますが新開氏はやってないだけに不安そうです。でも今日のあたりなら心配いらないのですが・・。気を引き締めて入っただけに隙を与えず④-0。いよいよ、大矢・清水ペアとの試合です。和歌山の天長杯には、このペアとやるそのたった一つの目的のために出場しました。結果は1-④で負けましたが、その時の試合の感覚は鮮明に残っています。また今日の前2つの試合も大いに参考になりました。清水さんの足の故障もラッキーなことでもありました。④-2で勝利。これでbest4です。最低限の目標まで到達しました。ここまでのテニスは新開氏と一本一本丁寧に話し合い、特にポイントは全てサインプレーに近い状態で行いました。これがこれからの我々のスタイルだなと思ったものです。
我々の山は進行が早く相手の試合は谷本・小森vs常久・高田ペアです。常久さんは朝から肘が痛いと言ってられましたが、どうやら準々決勝で限界に来たようです。
0-3から粘りに粘りましたが、追いつかれて逃げきれず0-④でした。サービスラインより後ろにボールが飛ばないくらい見ていて痛々しかったですが、それでもテニスを崩さない姿は素晴らしく見えました。相手は谷本・小森ペア。昨年から分が悪く、小早川さんと、新開さんと、福谷さんとも組んで負けています。ただ、この直近の2回は戦法を統一して戦い2連勝しました。それをやり通せば勝てるはずでした。しかし何なのでしょうね、最近はこうすればいいのだ!という試合に限りその反対のことをやってしまうのです。詰めが甘いということでしょうか、この試合に限り悪い面が出ました1-④で負けです。また一からやり直しです。他の山からは吉野・東0-④福谷・直原で圧倒的勝利で福谷さんが上がってきました。福谷さんと決勝でどこかでやるのは宿命です。直原さんと組まれた今はもちろん最高の相手に変わりはありません。でもそれができなかった今回はまだ修行をして来いとテニスの神様が言っているとしか思えません。毎回、同じペアで対戦できる位の実力をつけて来ないとやらせないよと言っているのでしょう。頑張りましょう。もっともっと成長してきます。

それにしても決勝は谷本・小森vs福谷・直原でした。大阪でも近畿でも谷本ペアの力は今では疑うものもありませんが、最初のチャレンジをしています。思えば我々が白子で全日本を戦ったとき最も苦戦したのが綱島・小森ペアでした。ファイナル⑧-6これがなければ今の私は無かったでしょう。その時から8年です。大阪では同級生たち辰巳の年代が切磋琢磨して力をつけてきました。小森さんは昨年から谷本さんと組みめきめきと力を発揮、以前は遠慮がちだったクロスへのボレーも本当に迷うことなく出て行ってます。それが今の成績につながっています。今回2ゲーム目までは殆ど福谷さんのペース。フワッと考えるボールに前衛を見てしまいミスしたり押し出したり・これは簡単かなと思ったものでした。直原さんを見ている限りは谷本に勝ち目はない。3ゲーム目に入り少し谷本選手の玉に勢いが出てきました。今までと違い力があります。見て打たなくなってきているな・と思いました。福谷さんも気づき始めたのか打ちに入ります。しかし今まで振っていないのが悪くネット。この一本で流れが変わると思ったところ案の定です。小森さんは打ち出した谷本さんのボールに合わせるように出始めました。直原さんも中央から追っかけますが届かない。1ゲーム取って流れはタイに。福谷さんたちが次のゲームを取りましたがボールの勢いは既にタイになっていました。直原さんのポイントがなくなり福谷さんのミスが増え、谷本さんのミスが減り、小森さんのポイントが増えていったという感じになって行きました。最後のスマッシュは小森さんの努力の心を込めた一本でした。おめでとうございます。

2013.6.27
明日から西日本シニア選手権です。午前中に新開氏と待合せて橿原クラブで最終調整をして四日市に移動します。雨が降れば四日市ドームで練習しようと考えています。新開氏の希望としては1-2試合を思い切りやりたいと考えていますのでそれをやりきって試合に臨みたいですね。悔いのない試合をやりたいと思います。一期一会という言葉が好きです。無二の一球という言葉もあります。テニスマンにとっては後者がより身近に感じます。私はテニスを始めてから色んなことがありました。楽しいことばかりでなく、苦しいいことや嫌なことも多かったですね。自分が未熟な時は焦ったり認めてもらえないことへの絶望感などが強かったです。学生の時は、一日やらなかったり怪我で一週間やらないでいると完全に落ちこぼれて脱落したような孤独感にも苛まれました。変化の大きな時はよりそう感じたでしょうね。環境が変わったりで新しい場所でテニスをはじめる時がいい転機です。私は社会人になる前、学生時代からマル4年くらいはテニスを考えもしなかった時期でしたので、大阪では誰も知らないし誰にも知られていないものでした。それが良かったのでしょうね。完全に自分をリセットできて新たなスタートでした。でもやはり毎日が霧の中でもがいていたようなものでしたね。一度トップに行ったことがあるとどれくらいの技術でどれくらいの気力でまた必要な体力が判断できます。ベスト4くらいまで行けば頂点もおぼろげに分かります。そこまで行くのに本当に長い時間がかかりました。でも気がつきました。まだまだ発展途上、勝負には一度くらい勝ったことがあっても自分が望んでいることは殆ど出来てはいないんじゃないか・と。今日出来ても明日はできなくなる・明日出来ても同じことが次の日はもうできない。その刹那だけにできている今の自分は本物ではありません。知識としてはきっと他の人より少しは有るかも知れません。しかし今でも色んなことを他の人より聞いたり、本で読んだりするとまだまだ未熟なのだと恥じ入ってしまいます。
今日も箕面クラブ福谷さんのブログを見て、自分のちっぽけさに落ち込んでしまいました。福谷さんに直原さんが「相手に考えさせるように」と言われたそうです。そうです。ああしろこうしろではないのです。最近、ワールドカップの決まった試合の後、浮かれ気分、お祭り気分、こんな時は危険な集団心理で暴徒化しかねない雰囲気があるのです。そこであの誘導したおまわりさんのスピーチが次の日も次の日も取り上げられ、おそらく日本中の誰もがなるほど~と感服したと思います。そうです、なんとかしろとか、してはいけないとかではなく、人を動かすのは「ハッと心に響くことば」を心にスっと入れることだとその時思ったではないですか。昔から僕もそのようにできるだけ考えてやってきたつもりですけど・・やはり知らず知らずのうちに直接に暴言を放ってしまうのですね。恥ずかしい限りです。直原さんの言葉の重みを私も率直に受け止めました。福谷さんに感謝致します。そしてその言葉をさらりと言い放ち当たり前のように、ふわふわと雲の上を歩いているような直原さんは本当に素晴らしい方です。そうです、高宮とともに「死ぬまで安達・直原さんを目指そう」と話したその目標はまだまだ遠くの遥かな山です。目先の勝利に拘わり、西日本の大会や全日本の大会に勝つということが決して僕の目標では無かったのです。それを積み重ねていくことで確認をしていくこと、そしていつの日か自分が歩いてきたテニスの道からテニスというものが少しは分かりその山頂が見えることがあれば・それはそれは幸せなことでしょう。ただそういったことを今この日に思い起こせたことは本当に何か素晴らしいことだなと思いました。何だか今まで心の中につかえていたものが、何か違うと思いながらやってきていたものが、スっと無くなったような気がしています。初心を忘れないで全力で努力をします。

2013.6.25
今日は朝から大雨です。風も強く久しぶりに台風といった感じですが、土曜日からの西日本シニアまでには収まってくれるといいのですけど。昨日、新開さんが徳島から練習に大阪までやってきました。彼は練習をし続けないと不安なようで前日まで全開で行くのです。僕はどちらかというと2ヶ月単位くらいで練習を組み、試合も課題を克服するよう組み上げていく方なので、1~2日単位の練習の有無にはあまり意識をしていないのです。それはきっと後衛と前衛の違いが大きいのでしょう。後衛はいつもボールを触ります。自由に扱えるという感覚が身についていないと試合を冷静に運べないでしょう。彼が試合までに・これで大丈夫だ・という自信を持ってくれることが一番大切でしょうね。そんな訳で彼は昼前に大阪につき、私と合流して12時から大正クラブにおじゃました次第です。大正クラブは市内で我が家かも適度な位置に有り練習場所としては最適なものです。練習相手も若者(?)から年配まで揃っていて面白いクラブです。ただ前衛がどうしても少なく、試合が始まると殆どフル出場に近く疲れてしまうのが玉に瑕です。昨日も2試合でいいなと思いましたが結局4試合もやってしまい体が重く感じます。ここには井場・東の東選手がいます。彼は元後衛でしたが前衛としての素質の方が格段に上だなと思います。ラケットの面使いが普通の人とちょっと違いますがボールを厚く捉える能力は非常に高いですね。また予測が非常に良く、ボールへの対応がいつもできるところにいるのが特徴です。攻めれば最も返る確率の高いところに必ずいます。ポジションは少し深めですから攻めればミスするかと思いますが、非常にミスが少ない選手です。そしてスマッシュ力が非常に高い。レシーブは攻めてポイントすることは殆どなくクロスに返すのが主流ですがまずミスはしません。彼の特徴は、正確なプレーと読みの良さと安定性ですね。それは後衛のストローク力がいい事にもよるのでしょうが、攻撃的なポジションからやはり基本は攻撃しているのです。押し込んで上がったボールは必ずスマッシュを取りに行く。サイドは捨てているかのようなポジションとクロスへの対応の良さ。それが彼の強さでしょうね。
いい後衛と組むとどうしても少しテニスが落ち着いてボールを選ぶようになります。また攻撃よりも誘いなどが多くなるのです。でも・考えてみればそれでは無難な勝ち方はできるけれど、勝ちきることはできないのかもしれません。大きな大会で優勝した時を振り返ってみると、自分の後衛の打ったボールに殆ど攻撃的に参加したのだと思います。それは無意識であったと今は分かります。無欲で集中しているために、ボールへの本能のように体が勝手に動いたのです。後で見ている人に話を聞くと、全てボールに吸い寄せられるように動いていたとも、ボールが行くところに集まっていくな・とも言われたものです。そうなのです。前衛が無駄に動いていてはいけないのですけど、エンジンがかかった時は一気呵成にポイントを貪欲に取りに行く。これが勝利の必須条件でしょう。
単に後衛の力に頼り美味しいところをポイントするだけでは・・きっと勝利はやってこないのです。獲りに行きます、勝利を。

2013.6.19
6/16は芦屋オープンが開催されました。第5回となったこの大会は年々参加数、レベルとも高くなり今年は会場も4会場に別れました。昨年までシニア55の次は65でしたので55のペアを探しました。昨年組んだ中村さんは今年のペア松村さんと出るので私は予てから機会があれば出てみようと言っていた男座さんとエントリーしました。その後で今年から60の部が出来たと聞き、やはり西日本前は出ておきたかったなと思うものです。
この大会には関東から小林さんが参加しました。昨年のシニア55準優勝。4年前から西日本のローカル大会に進んで参加しいづれもいい成績を収めてきましたが、大切なのはそうやって今の自分を乗り越えていこうという心意気です。関東のレベルが低いとは思いません。彼とも2日間我が家に泊まって頂いたおかげで色々な話ができました。色んな所に行って、いろいろな前衛と組むことはとても勉強になると。自分のペアとは当たり前のように組むのでいいところ悪いところがわからなくなっていると言います。今回彼は蔀さんと組み、その守備範囲の広さ決断力、安定性に感服していました。実際彼は先にも書きましたが昨年全日本を取ってから格段の進歩を遂げていると思います。西日本を取ったあたりからその確実性に我々ペアは感心していたものです。小林さんも今回のゲーム展開を見るとかなり落ち着いていいテニスになってきたと思うものです。自分では打てないからつないでるダメだと、へなちょこボールだと言いますが、前衛に引っかからないようにうまくかわしています。そして攻められるときは思い切って抜いていきます。打球力はそれほど感じなくともキレは感じます。これはやりにくい相手になったのではないでしょうか?
小林・蔀は無難に危なげなく決勝まで進みました。井場・東との決勝はやはり苦しんでるといった印象はありません。東さんはミスが少ない前衛ですが取りにくい配球に少し無理をしていました。つなぎに徹するということは、相手の前衛を無視することです。よほど気が長い前衛でない限り何かを変えようと仕掛けますね。ここから余裕があれば攻めもできますし、更に徹することもできるのです。徹底することはなかなか難しいですが、それが勝利への近道かもしれません。

2013.6.11
6/9は北九州シニア大会が穴生ドームで開催されました。もう15年近くも行っている大会で段々クラスも上がって行きます。顔ぶれも次第に変わっていくのが分かります。昨年、懇親会も次第に人が少なくなって行くのだな・と書いていましたが、今年は主催の松田さんのご努力でしょうかかなり多くの方が参加していらっしゃいました。市政50周年事業とのこともあるでしょうし、西日本公認のため複数県の選手を呼ばれたこともあるでしょう。しかしなんと言っても今回私が本当に幸運だったのは、東北より袴田・菅野ペアが参戦して対戦できたことでした。春の大会に少し無理をして大矢・清水ペアと当たる試合に出たり、幸運にもその試合で吉野・東ペアに当たったりしました。悔やまれるのは神戸で福谷・直原ペアとやれなかったことです。代わりに常久・高田ペア、客坂・宇崎ペアとやり、これも期せずして大きな収穫でした。考えてみれば今年目標としているペアとほぼ対戦できました。勝敗は別ですが、新参者の自分たちが60歳の百戦錬磨の猛者たちを相手にするのに一度対戦しているのと全く知らないのでは状況が違います。心のゆとりも違います。それは相手も同じことですが、私のようにある程度相手のパターンを頭に入れておかなければいけない選手は絶対必要なことなのです。
前日の練習試合、最初は有田・石田ペア。新開さんは有田氏に結構自信を持っているので好きなように展開していきます。有田さんも以前と比べてかなり進歩した全日本を取った試合にも感じた素晴らしいバックハンドで相手を攻略していきましたが、そのあたりは自信を持っているようで、流すのも引っ張るのもライジング気味に打ってきます。これが注意する点ですね。サーブがリバース気味の決して綺麗な玉ではないですが打ちにくいのです。勝ちましたが、もつれてはいけない。2試合目は有田・松村ペアで松村さんの運動量に少し翻弄された感じもあります。新開氏もまだ安定していない感じです、この試合は最後に松村さんに2本止められ負けでした。もう上がろうかと言ってた頃袴田・菅野ペアが到着。新開・松村ペアと対戦しましたが、2くらいで負けです。まあ調整といった感じでやってこれくらいで行けるのかと驚いたことでした。
懇親会は20~30名の方が集まりました。沖縄からも3名の参加が有り美味しい料理に会話にも花が咲きます。菅野さんも袴田さんも奥さんと一緒に参加されています。袴田さんの奥さんは八女出身とのことで1週間ほど滞在されるとのことです。震災のこと、アジア大会のこと、全日本シニアのことなどその時の心理状態などを話しましたし、いくつか共感することもありました。テニスが出来ることへの感謝、死んでしまえばできません。日本中の知り合いが災害に対して心配してくれる有り難さ。。これはよくわかります。阪神大震災の時も関東から1ヶ月後くらいにも電話があり、大学時代の友人で殆ど音信がないのに・・オー生きてたか!とホッとした声が電話の向こうでしました。神戸と大阪は関西ではずいぶん違うのですが、関東にとってはほんの隣で距離感なんかもわからないでしょう。携帯電話もまだ普及していない頃、固定電話に向かってダイヤルして全く通じない日々が続けば、ダメか・と思うのも無理はありません。そうして自分のことを思い出して心配してくれる友人や親族がいる。これは素晴らしく有難いことなのです。震災後の奥さんとの再会もお聞きして暖かくなるのを感じました。仄々としたものをを感じていました。袴田さん夫婦も本当に優しい袴田さんに明るい奥さんの構図でいい絵でした。袴田さんは岡山の澤江さんとかつてお知り合いとのことで世間は狭いものだと感じたものです。
次の日の試合は、いろいろ考えた組み合わせを作って頂いてました。下のゾーンに甲斐・松村vs袴田・菅野が先に、次に我々と彼らのの勝者。そして他方は昨年優勝の児玉・湯田vs有田・蔀の勝者と決勝はその勝者同士となっています。甲斐・松村ペアと袴田ペアとの試合は結果的には④-0でした。1ゲーム目を甲斐ペアが取れば簡単な展開にはならなかったかもしれません。次は我々との対戦です。いい試合にしようと思いましたが、最初の2本、新開が攻めたボールを簡単にストップ気味のボレー、2本目は僕の逆クロススマッシュを背面ボレーされ逆ポイントとなってしまいました。僕の2本のサーブで2-2。3-2を落としジュースに。ここから延々10分以上のデュースが続きました。ポイントを取っても取りきれない、お互い4-5回くらいの攻め凌ぎがありましたが、最後は袴田さんのネットイン、・・こんなもんです。
ビデオが撮れてるかと思ったけど、カメラが落下して撮れず残念。2ゲーム目からは撮れましたが、最初の設定が悪い。心構えで負けていたということですね。
次からはやはりセってジュースにはなるのですけど取りきれない。次第に新開さんも力が入ってきているようです。ここは出てやらなければいけないのですね。苦しい時は何とかしてやらねば一人で背負ってしまうのです。前衛はラケット担いででも取りに行かねばならない。現状を打破するのは二人でやらねばなりませんが、破壊できるのも前衛なのです。勝っているときは任せておけばいいです。でも負けているとき、手を拱いていると何もしないで負けてしまいます。負ける時も二人で負けよう。決してお前の所為とはいわないことです。言えないことは前衛もわかっているのですけどね。しかし今回、思い出してみるとやはりプレッシャーを掛けてやれていなかったですね。楽に打たせすぎました。センターも何本か割られたしクロスへも思い切り打たれてます。それではいけないのです。フォローが上手い4ゲーム目はいい攻めと1ゲームくらいやろうかという相手の安心感からか取れましたが、5ゲーム目はしっかりと4本で抑えられました。よく分かりました。彼らがどれだけ強いのか、どれだけのことをやれば勝てるのかを。我々はこれから謙虚に技術を見つめ直さなければなりません。今やっていることの完成度を上げていく。それしかないでしょう。鍵は私にあります。
決勝は予想通り有田・蔀vs袴田・菅野。この対戦はとても興味があります。有田さんは相手が誰でもテニスを崩しません。しかも最近は安定感の増したストロークに定評があります。期待した以上に接戦となりました。有田さんが速く逃げるボールを繋ぎに入りますが、蔀さんが得意のスマッシュで粉砕します。繋いでいるのを狙っていくこの決断が素晴らしい。対する菅野さんも陣形が崩されても打たれたボールを面をしっかり作ったボレーでミスなく繋ぎます。驚くのは今日何度もありましたが、つないだ後の攻めでポイントを取る技術の高さです。普通は繋ぐと次はひと呼吸置くので取りに行きません。しかし、相手が繋ぎに入った球をモーレツに取りに行き決めてしまいます。我々のマッチポイントもそうでした。
またフォローが抜群に上手いのです。よくボールと前衛を見ているということでしょう。僕もいい時はよく見えますが、昨日の菅野さんは抜群でしたね。最後まで見せてくれましたが、ローカルルールでファイナル4本はやはり興ざめでした。時間も早かったので決勝だけは通常ルールにして欲しかったですね。最後まで有田さんの思い切りと蔀さんのスマッシュが軽快に決まり④-3で有田・蔀ペアの優勝でした。でもこの試合を見れたことそして対戦できたことは全日本シニア前に素晴らしいチャンスを与えて下さったとテニスの神様に感謝するものです。今は自分が思ったように事が運んでいっています。これを活かして西日本、全日本シニアに望みたいと考えます。

2013.6.1
インハイ団体大阪府大会が寝屋川公園で行われました。今春から吹田高校の外部コーチになりましたが、まだ3ヶ月くらいですので試合中にアドバイスをしてあげることは難しいものです。コーチというのは技術的なことはもちろんですけど、最終的には人間を信用してもらえるかどうかで決まります。彼らと心が通い合わなければ本当に言葉を信じてもらうことはできません。今の中心選手は技術的には少し信頼があるかなと思いますけど、個性を理解しきっているわけではないのでギリギリの点で最適な言葉をかけてあげられません。それはまだ我々が未完の関係だなということなのです。
ベスト8掛けは隣の薫英学園です。同じブロックでありながら中央大会でも下の山に入ってしまうのはまだこの学校にも試練が必要ということなのでしょう。ブロック一位のプライドが相手にはあり、当方には何かしらコンプレックスがあるという構図がはっきりと出ていました。子どもたちの表情・心のありようがそれを物語っていました。さすがに吹田の1番は安定感と精神的な優位に立ったテニスをしました。インターハイに出場したというプライドがそうさせているのでしょう。1-1で迎えた3番勝負、当方は2番手、相手は3番でした。オーダーは監督の思惑が的中しました。僕の見たところでは、吹田1番手>>薫英1≡2≡3≧吹田2>3ですので相手はダントツの選手はいないが平均的には上回っているという印象です。その日の調子が良ければ勝てるが難しいところです。1ゲーム目を凌いで逆転して取りました。その時の彼女たちの目は今まで見たことのない凛としたものでした。この勢いで2ゲーム目を取ればタイか優位に立てるでしょう。もし落とせば振り出しです。そこの重要性がまだ分かっていない・・安堵感からか2ゲーム目を割と簡単に落としました。薫英は必死です。プライドをかけて全面に押し出してきています。決して相手の後衛も調子は良くありません。でも割り切って短いボールは攻めてきます。最初は止まっていたのですが次第に抜かれる本数が多くなってきました。後衛は昨日から打てばアウトするので繋いで行くことを主体にして行くようにしていました。ほぼ彼女は今できる最大の力を発揮したと思います。それが打っていかねば勝てないという相手の心が優ったようです。デフェンスの練習は1ヶ月近くやってきました。しかしまだ不足していたのです。それは何か・・それがプライドであり執念ともいうべき勝ちへの拘りなのです。今の3年生に欠けているものは執着心です。勝ちへこだわること、追い続けること、その為に何をすればいいか、どうやって自分を高みに持って行けるかを傷つきながらでもやり抜く心が不足しているのです。
かつて教えていた子達も同じ事を2年生くらいまではやっていました。3年生になるまでそこを徹底的に意識高揚、改革を行って一本への執着心を植え付けたのです。そこはこの時点では言っても分からないことなのです。頭では分かるでしょう。でも体や心が反応しないのです。それでも言わずにはいられません。・絶対勝とうという気持ちでぶつからなければ対等でないよ・と。しかしやはり目の色が弱く張りを失いました。・・結果は1-④で負け。1-2でベスト16。敗者復活戦で勝てば近畿大会に出場できます。相手の戦力は見ていたのでまあ問題ないと思っていました。結果は2-0で勝利。めでたく・・近畿大会には出ることができます。但しどこかのパッキンに入り苦しい出だしとなるでしょう。
来年までにはチームをもう少し作り上げれるだけ技術も心も育てていきたいと思います。
僕がこの高校に関わる理由もそこにあります。
しかし、初心者に近い生徒達を自ら考えられた練習方法で繰り返し繰り返し基本の形を作り上げ、チームとして近畿大会に出場。更に才能のある1ペアをインターハイに導いた先生の努力は並外れたものがあります。そしてそれに応える本当に素直な生徒達・OB,OG、ご父兄も初めて会いましたが皆さん好意的に支援しています。このトライアングルがある限りここの学校は伸びていきます。もう一度教えてみようかなと思わせてくれる集団でありました。僕の理想とする、楽しみながら真実を手に入れていく手法で育ててみたいと思います。

2013.5.31
明日はインハイ団体大阪府予選です。先日の地区予選から1ヶ月経ち、1ペアは個人戦でインハイ全国大会に出場が決まりました。その他の1ペアも惜しかったのですが、結局は2回戦で負けました。しかしこのペアは高校からソフトテニスを始めた2人で良くやったとも言えるでしょう。運動神経がかなり良くて色んなことをこなしていける・これからも続けてくれれば良いのですけど。さて彼女たちは目標が近畿大会・といっていますが一昔前なら大阪で4本、今は12本です。近畿大会に出たければ昔は大変な事だったのです。そんな訳で4本に!と言っていますがその意味はそんなに分かっていないでしょう。
人は目先の目標を立てがちです。でもそれはギリギリセーフかアウトかボーダーにすぎません。絶対の自信を持って行って欲しいのです。初めて出る大会は砂漠の中でどちらに行けばいいか分からない旅人です。でもいつも出ていれば、自分の位置が分かります。どれだけの事をすればどうなるのか、それが分かっていることはとても強いことなのです。
勝っていない人は決勝でどんなにリードしていても相手がチャンピオンならば逆転して負けてしまうことが良くあります。勝ち方を知らない・というか分からないのです。何度も同じ事を繰り返すと色んなことを試し、ある日突然に勝ちます。その時・こういう事なのか・と悟るのです。一度分かれば逆境になっても勝つことができるようになります。それはとても大切なことなのです。どんなことをしても勝たせてやらねばならない。これが強者を作る最短で最良の方法なんです。
クラブ活動は個人だけでは上手くなりません。お互いが切磋琢磨すると同時に仲間を上手くしてやらなければ自分もそれ以上に上手くなれないジレンマを抱えています。ライバルが上手くなるのを助けてやらねば自分も上手くならない。途中では逆転もあり得ます。ヒョッとしたら足下にも及ばなくなるかも知れません。でも団体戦はそういったものです。野球でも名門校なら100名を超える部員達から9名、せいぜい15名です。そういったものなのです。自分がでなくても学校が勝つのなら嬉しい・・かといえば本当はそうではないです。空しいと思います。僕もかつてそういったことがありました。でも割り切らなければいけないのです。何かが足りなかったのだと、それはうすうす感じているはずです。

2013.5.29
近畿大会の次の日は八尾市民大会でした。シニア45は6ペアのリーグ戦で5試合をこなしました。前日の近畿大会で痙攣のため筋肉が張っています。朝起きるとう~んどうかな・という感じでしたが、普段勝手をしてますのでせめて八尾市の4つの試合と合宿、中学・高校生大会はできる限り参加しようと決めています。シニアは前衛が多く、自分では前衛の倉庫!と呼んでいます。本当に昔からですけど、前衛の多いクラブでした。いっときは困ってしまい、高校生を卒業と同時にむりやりクラブに誘い各々の後衛にして試合に出たものです。残念ながらその頃の後衛達は一人も残っていないのが実情です。
この日もダブル前衛が2ペアできました。私もシニア45の御内さんと組み出場です。前衛同士でペアを組むと非常に分かりやすいので楽しくできます。それは最初から遊びという感覚もあるのは事実です。でもそれだけではなく頭の中が大体似たものだからでしょう。本当は前後衛が同じように分かり合い我慢をしながら主張をしあわなければいけないのだと思います。テニスは元々シングルスなのです。2人があたかも一人の選手であるように振る舞えることが理想なのです。
結果は堀内・百々ペアにファイナル7-5で負けて2位でした。まあ思うように展開はできましたがちょっとしたミスが出て負けてしまいました。やりきることが完全にできなかったのです。でも楽しくゲームはできました。今日は両足にサポーターをして更にジャージを履いて試合をしました。おかげで攣ることもなく1日過ごしました。試合後負けた堀内さんと2試合試合をしてどちらも④-2くらいで勝ちましたが、練習で勝ってもねえ・・
合計7試合はちょっとこの体にはきつすぎました。試合後帰れば良かったのですがつい付き合ったのがいけなかったですね。その後月~水と両足のふくらはぎ、膝の裏、股の筋肉が触っても撫でても痛いくらいに損傷してしまい殆どを寝て過ごしました。もちろん湿布、プロテインを摂取し筋肉と疲労回復に努めました。こんなに体が痛んだのはかつて全身痙攣で入院したとき以来の出来事でした。急激な気温の変化が体に与える悪影響を痛感しました。そして以前の痙攣時に比べ私の体力や筋力が落ちていること、代謝が低くなっていることなどを十分認識しなくてはならないのでしょう。いつまでも若いなどと思わないで自らの年齢を冷静に見つめ直すことが必要なのです。分かった上でベストのコンディションを維持することが大切ですね。地球環境の変化も見落としてはいけません。明らかに一昔前とは違うのです。

2013.5.27
近畿大会が終わりました。今年はシニア60でのデビュー戦。万全を期して4月から福谷さんと組んで頂き近畿大会へのタイトルに挑戦しました。初めは遠慮もありまた以前のイメージと違い丁寧な配球の中でじっくりとチャンスを待つ変身に合わせていくことにちょっと時間がかかりました。4/6府民大会はリーグ内で谷本・小森ペアに2-4負け。続く北村全国大会は田中・中辻ペアに負け8。5/3の超壮年くらいから大体の組むイメージが出来上がり自分の攻撃タイミングもわかってきたので少し成績が出始めました。ただまだ万全ではありません、谷本・小森0負け。この感じでは吉野・高田ペアには不安がありました。次に社会人大会では、谷本・小森ペアに対して福谷さんも攻めに転じ、私も動きで谷本選手を迷わせることで成功。ただ吉野・高田ペアには逆に先攻されて苦杯を舐めました。前日の神戸山手杯の反省から、高田さんが福谷さんを先に攻める作戦に出たようです。
福谷さんとのペア集大成を近畿大会と位置づけていました近畿大会ではきっとこのペアとの戦いになると予想して臨みました。初戦は高瀬・永井ペアは先にボールを回されると苦しいのですが、福谷さんの先に回す技術で勝利。2回戦の米田・中村ペアはわかりにくいスイングと思い切りのいい中村さんのプレーで縺れてファイナル。ここでイージーミスが相手に出て辛勝です。しかし諦めないことが大切だと思った試合でした。4決めは谷本・小森ペア。今年はきっと一年彼らは近くにいるのでしょう。ここを倒さねば先はありません。それは彼らも一緒です。過去何回かのデータを引き出して整理して臨みました。先攻して3ゲーム連取。次のゲームも2-0となりました。私のサーブでしたが通常は2本のうち1本を取るくらいの余裕をもって臨むのですが、やはり焦っていたのでしょう。勝ち焦りはあるものです。2-2となり明らかに逃げ始めました。イカンと思いましたが2ゲーム落とし3-2。次を落とせばもはや気持ちは逆転します。6ゲーム目が勝負となります。2-0から私のサーブです。4ゲーム目と同じことをやっていればまた同じ結果です。位置を確認すると谷本さんが下がっています。ここは短いサーブです。谷本氏のレシーブがボール2個分アウトで3-0。次のサーブもクロスサイドへを福谷さんと打ち合わせたのですがフォアへ行ってしまいました。あー失敗と思いましたが、小森さんが素直に返してきました。前に出られず逆クロス展開となり、ここも短いボールを打ちました。谷本さんまたもや回り込んでストレートへ長いボールを打ちましたが同じくらいアウトでゲームセット。ラッキーな2本でした。
この日はとても暑く実は4本決めの前に少し右の腿の裏がピクリとしました。アミノバイタルを飲みOS-1も飲みましたのでその試合は持ちました。なんとか大丈夫かなと思いましたが、あまり炎天下に身を置いていると疲れてしまうので漢方薬とアミノ酸、ポカリスウェット、塩などをたくさん補給して木陰へ。対戦相手は木下・生駒vs土井・吉田ペア。長い試合が続き1試合分ほど我々は休みました。普通なら圧倒的有利なのですがこの日は違いました。万全の準備が却って体を冷やしとようです。筋肉の痙攣が始まり回復しません。あいにくサポータをもってなくズボンは履いたのですが改善なしです。敵は人ではなかったのです。この5月の異常高温と低湿度での木陰の気温差でした。思いもやらぬことに私は動揺しました。
相手は土井・吉田ペア。彼らは今日第2シードの辻・南出、木下・生駒ペアをいずれもファイナルで下しています。その粘り強さは嫌な予感がしました。1-2ゲーム目は何とか動けて相手のミスも出て2-0。しかしここからが問題でした。レシーブゲームでポイントも何回もやってきますが足が固まりミスを連発。福谷さんの焦りが感じられます。申し訳ないなと思いながら倒れないことで精一杯でした。一時は足の裏が痙り感覚がなくて立っているのか分からないくらいの状態でした。今から思うと休めばよかった。一生の不覚です。パニックというのはそういうものなのですね。全体を見ることができない・・
私を庇い福谷さんは打って打って先行しようとします。しかし狂い始めた流れは彼らの方に行ってしまいました。本当に申し訳なく、悔しい負けでした。近くにボールが飛んでいるのに触れない。本当に辛い負けでした。
1~4シードの山からは客坂・宇崎ペアが吉野・高田ペアをファイナルで降ろして上がってきました。この日客さんは大矢・清水ペアを④-0。素晴らしい寄せ付けない展開でした。大矢さんの慌てた様子を初めて見ました。
足の攣っていた土井さんは一方的に負けるかと思いましたが、決勝もポイントを欲しがらない無欲の展開で有利に進めます。3-2の2-2での吉田さんのダブルフォールトは悔やまれますね。一挙に客坂ペアが緊張から解き離れ風向きが変わった瞬間を見ました。あそこを何としてでも入れておかねばならなかったのです。そうすれば石のように固くなっていた客さんは恐らく柔らかいボールを返してきたでしょう。サーブを入れたらネットダッシュすればミスしたかもまたは目の前にスマッシュボールが上がってきたかもしれません。とにかく勝負を決めた一本でした。観客席から・・アーッ!・・と悲鳴ともため息ともつかない声が上がりました。
その後は生き返った客坂・宇崎ペアに軍配が上がりました。
勝負は終わってみるまで分からないものでした。全力を尽くした者のみが栄冠を手にします。そこにはほんのちょっとの運と風もあるものだと思いました。
福谷さんには今日のお詫びと借りをお返ししなけれはならないと思っています。本当にすみませんでした。

2013.5.16
この連休後の休みは鹿児島に行ってきました。萩原旗というローカルですが鹿児島では大きな大会です。鹿児島国体の意識高揚のために始められた大会ですが、多くの招待選手を加えてレベルは急激に高くなります。一般男女はさながら全日本の上位の戦いでした。その各々にチャレンジできる機会を与えられる選手たちは幸せですね。こういった役員さんたちの努力が伝わり選手と本部との繋がりが強くなっているのはいいことですね。
大阪でも本当に一般男女のことを考えた企画が本部からトップダウンでくれば大阪はもっといい結果が出ると思われるのです。昔から大都市周辺には自然といい選手が集まってきます。本部が努力をしなくても底辺が非常に広く深かったのです。選手を選んでやるといった意識が現在でも抜け切れてません。それではダメなのです。選手の気質も変わってきています。プライドは高く、高圧的な態度を好まない若い世代の選手たちが多いのです。だから甘やかせと言っているのではありません。
右も左もわからない新人に高い意思を持つように指導し、本部の誠意が伝わるように率先して動けば、きっと選手役員の距離は縮まり楽しく信頼し合った集団ができるはずです。本当に選手の気持ちを組んであげる慈愛が必要です。
初めて参加しました。同日に宮崎ではグランドベテラン大会が開催されているそうで九州の全選手が集結しているのではありませんが、鹿児島近郊のいい選手たちが集まっています。我々は4チームリーグでした。1試合目は年配でしたがビシビシ打ってくるペアで1ゲーム目を落とし雰囲気は良くないです。まあ最後までその全力プレーでのポイントは続かないだろうと思いましたが、2ゲーム目から調子が崩れ入らなくなり④-1、次のペアは丁寧な緩いボールをつないでくるタイプ。1ゲーム目の途中で素直なボールだなぁ・と新沼氏。それで攻めていこうと考えたのかビシビシ打ち出したのですが、ネットに嫌われたり、ボールが短いので少しだけバックアウトが出るようになり何となくズルズルとゲームを落とします。同じような展開で0-3まで。リーグ戦で0-④はもうダメです。負けるときはファイナル、勝つのは④-0というのが鉄則です。つまり全力を出してそれでも」負けた人にはチャンスがある・というのがリーグ戦です。負けても次に頑張ればなんとかなる・というのは話が違います。最低でも2-④でなくてはなりません。次を頑張ってとりもう1ゲームと考えましたが、最後のゲームはスーッと終わってしまいました。計算すると、最終戦を④-0で勝っても見込みはありません。しかしここは④-0で勝つことを目標に臨みました。1ゲーム目、長く続いたデュースでしたが、やっと取れました。あとは勢いのまま④-0です。こういった絶対落としてはいけないゲームに対する執着心がかけていることがトーナメントを左右します。悪魔のように繊細にやらなくてはいけないのです。今日の試合で行けば2ゲーム目の負けは負け方に問題がありました。そこが途中で読めなくてはいけません。そこがチャンピオンになれる厳しさなのです。

前日は雨の鹿児島空港に9:30に着陸。晴れを期待しましたが、小雨です。岩崎さんのお迎えです。ありがとうございます。地元というのはなかなか知ってるようで分からないものです。岩崎さんも自分が行きたいところへ行くよと連れて行ってくださったのは、まずは嘉例川駅舎。ここは古くからの駅舎が残っている風情のある駅です。無人駅で誰もが自由に出入りできます。昔はこんな感じの駅は沢山ありました。わが町でも近くに柵原から片上まで片上鉄道という会社線がありました。小さな硫化鉄鉱石を搬出するための鉄道でしたが、客車も運行していました。子供の時は気づきませんでしたが、その駅舎はどの駅もおとぎの国のマッチ箱のような小さな駅で残っていれば今では名物線として生き残れたであろうと思います。写真を撮っておけばよかったのですけど、過ぎ去ったもの・無くしたものは帰ってきません。
続いて霧島神社に行く途中、龍馬新婚旅行の塩浸温泉へ。沿道に連なるもみじの若葉が秋の見事な紅葉を期待させます。小さな温泉ですが、湧き出るお湯は至るところで水蒸気をあげ川に流れ込みます。20日間も逗留したのは怪我のせいもあるでしょうがその素晴らしさは納得できるところです。そして丸尾の滝。ここは20mくらいの落差はそうありませんが幅20mと結構広いのです。今日は水量も多く垂直に落ちている水は綺麗な滝を描き出します。水は乳白色、周りは国立公園だけに人の手が入っていない自然の山です。そうですね、これがいいんです。そして神話の里公園。綺麗な山肌にロープウェイ。景観は素晴らしいことでしょうが、上がる元気がありません。
そして高千穂河原に。途中は流石に原生林。雨がほとんど上がってますが両側から迫り来る木々で天は覆われさながら樹木のトンネルを抜けるような感覚で進みます。空が見えるようになるとツツジが咲いています。ミヤマキリシマかな?などと言いながら二人共知らないもの同士でした。小さな花弁の赤、ピンクと咲き始めという感じです。アッと思うと2頭の鹿がこちらを見ています。自分の家の周囲にも多くの鹿が出てきますが、それとは違って少し小型の牝鹿かまだバンビだったのかもしれません。車をじっと眺めながら危害を加えられないと分かるのでしょうじっと見送ってくれました。高千穂河原に到着。車は数える程しかありません。
ここからは御鉢が見えるはず・・とのことですが、残念ながら今日は山にガスがかかってます。そして避難豪がありました。思えば普賢岳が起こした火砕流で幾人もの死者が出ました。そうです、ここはその悲劇の起きた場所なのです。またずっと前に起きた噴火で霧島神社は現在のところに移転してきたようです。500mの山道を上る勇気があるか?回答は二人共Noでした。
鳥居の前にはツツジが綺麗に咲いてます。この地でこのツツジはミヤマキリシマに違いないと納得したものです。さて資料館がありますので入ってみることに。霧島の火山群と桜島、開聞岳、硫黄島などが一連の火山帯であることがはっきりとわかります。またここには高千穂峰の頂上にある逆鉾の模型などが展示してあります。いつからあるのでしょう。太古の昔からあるのなら凄いことですね。感心しながら出てみると、雨が上がり御鉢にかかっていた霧がまるで劇場のカーテンが引かれるようにゆっくりと開いていきます。しばらく見ていると全て開きそうです。もう帰ろうかと車に行きかけていたのですが、急いで戻りその雄大なパンラマを仰ぎました。雨上がりの峰は洗われたように綺麗です。よく見ると右の山肌に赤やピンクの模様が見えます。何だろう・・と話していると、あれはミヤマキリシマじゃない?!と岩崎さん。この麓からみてあれだけ絨毯のように見えるのですから、物凄く広大なお花畑のようなものなのでしょう。すごい光景です。本当にこんな条件で御鉢を見るのはないことでしょう。
霧島最後の霧島神社へ。ここも歴史のある佇まいです。どうして昔の人々はこういった荘厳な建造物を建てることができたのでしょうか?奈良に行っても京都に行ってもはたまたイタリアに行っても・・すべてが謎です、僕にとっては。山は神聖なもの、神社はその入口なのでしょうか?山にも勝る大きな建造物を作ることが権力の象徴で大きさが髪への接近度だったのかも知れません。お祈りは健康と人間の糸が続きますようにと。

5/13月は市内観光をすることに。鹿児島に来ても余り名所・旧跡を訪ねたことがありません。桜島を遠くから眺めたりすることはあっても、市内をゆっくりと見ることはなかったのです。それは試合に来てテニスコートと宴会場を往復するのと似ています。せっかく行くのですからその土地を知ることも大切です。東京から来た新沼夫婦と案内は岩崎さんで市内を回りました。岩崎さんは色々と予習して下さりバスの時刻など熟知していました。西郷さんの終焉の地で見た桜島の景観は素晴らしいものでした。市内至るところで西郷さんのゆかりの遺跡やモニュメントがあります。愛されていたのだと思います。ただそれならば西郷さんの本当の顔を復元して欲しい。色々な話から今の西郷南州の顔は全く別人ということは明白です。なのに日本中があのイメージで偶像化しています。おかしいですね。なぜですか?修正すべきだったと思います。今でも遅くはありません。真実はどこにあるのでしょう・・。続いて行きたかった仙巌園へ。期待が大きかっただけにその庭園は後楽園ほど広くもなく、整備もされていなく、全体が整っているけれども庭としては無難かなという印象です。素晴らしいのは桜島を眼前に望みそのバランスでしょう。特に午前中の爆発で舞い上がった灰が降ってきたのでした。1978年浅間山の噴火で降灰が桐生で見てからかつてない経験でした。
お昼はなぜか博多ラーメン。まあ薩摩ラーメンもいいのですが。
市電に乗って鹿児島中央駅まで帰ってきました。新沼夫妻とはこれでお別れです。私はこれから指宿まで行き砂風呂に入ります。老廃物を出し切ってくれるこの砂風呂に試合で疲れた体を横たえようと大阪を出る前から決めていました。
そうしたところ岩崎さんがホテルまで送ってくださると・・それは申し訳ないと言ったのですが、指宿はすぐ近くだし自分の庭みたいで時間もあるし・・と仰ります。鹿児島の旅では甘えることにしました。海岸沿いに走ります。途中でもっと海岸沿いに行きましょうということで海沿いに走ります。すると眼前に少し大きな平たいしまが見えます。・・あれはなんというしまですか?・・知林が島・あそこは時間によって砂州ができて歩いて渡れるんです・・行ってみましょうか?・・時間もあるしと近くの公園に車を止めて堤防沿いに歩いていくと!砂州がありました!・・すごい、これは韓国のなんとかという島と同じですね。モンサンミシェルも同じかな・・500m以上は歩かないと言っていた岩崎さんも、こんな機会は滅多にないので渡りましょう・と。砂浜のトレーニングを思い出します。渡りながら一体満潮になる時間はいつなんだろう・・と不安を感じながら足はついつい速くなります。渡ったところで岩崎さんは、大丈夫だよ・あの人たち(観光案内)が動かないから。まだ潮が満ちてこないよ・・といいます。流石に冷静ですね。往復に50分近くを費やしましたが、雲一つない空が黄砂なのか霞んでいます。遠くには桜島が見えて本日4回目の噴煙が上がりました。白く遠くに霞んでいます。指宿からは桜島はやはり遠いものなのです。
既に16:30を回っています。そこからくるりと道を回ると指宿商業です。・・ここでずっと練習したのです・・コートは3面、1面は男子で試合などは男女一緒にやっていた。おかげで全国優勝も出来たし、男子もかなり強かったと。そんなことを言ってるとホテルにつきました。本当に珍しい経験をさせて頂き有難うございました。

5/14火は、迫さんが休みが取れたということなので案内お願いしました。申し訳ないですが、晴れ男性を発揮してホントに快晴、朝から晩まで雲一つない天候でした。皆さん迫さんの運転は危ないと言われますが、本人の名誉のため言っておきます。決してそんなことはありません。ただ思い切りの良さはあるということだけ言っておきます。何しろ開聞岳に会いに指宿に来たようなもんです。綺麗に見えるところを巡ってくださいとお願いしました。先ずは先ずは最南端駅の西大山駅に。ここは無人駅でやはり自由にホームへ出入りできます。電車は来てませんでしたから撮影はできませんでしたが、開聞岳を後ろに電車を撮影できます。黄色いポストがあり高校生が体験学習でしょうか・記念はがきを売ってました。たくさんのシニア観光客がやってきます。・・何にもないんだねぇ・・もともと駅に何かあるわけないですね・・今は駅の前に漬物屋さんができてます。これだけでも違うでしょうね。
次に長崎鼻へ。この辺りは指宿カルデラの中にあるということで火山の真っ只中でしょうか。池田湖も開聞岳もクラスCの活火山とのことです。駐車場から道なりに下っていくと、なんとも綺麗な竜宮神社があります。この辺りは浦島太郎伝説があるとのこと。神社から一望すると遥右の端に開聞岳、湾はエメラルドグリーン、ミルク色と入り混じった昨年沖縄の海で見たような美しい光景が広がります。正面には岩場と灯台、左は大隅半島が遠くに霞んでいます。空は春霞のような薄い水色。空と海との青のグラデーションが何とも言えない絶妙なバランスを醸し出しています。素晴らしい広がり、ここからの開聞岳は絶品です。晴れた春の日に指宿に行かれたら是非ここに行かれることをお勧めします。・・こんな素晴らしいところがあったんだ・・と迫さん。地元の人だから分からないこともあるのですね。次に鰻池に。そこかしこに温泉の湯けむりが上がっています。噴出している蒸気に芋とか卵とかを置いておくと天然の蒸し器で綺麗に調理できるそうです。近くの家から蒸気が出ています。蒸気を利用してお風呂を使っているそうです。でも硫黄が多いので硫酸酸性になりますから、鉄製の部分はすぐ錆び付いて真っ赤になったりサビ落ちています。いい事ばかりではないようです。
お腹がすいたのでお昼に。流石にこの辺りはかつおが多く定食もメインです。刺身定食を頼みましたがちゃんとタタキもついてきました。新鮮です。
次に釜蓋神社へ。海に突き出た神社は何度も高波で浚われたそうですがその度に復興してます。参道には以前の神社の柱が海中から引き上げられ纏められ祀られていました。ここは釜蓋が置いてあり、鳥居から本殿まで頭に載せて(手を使わないで)歩ききれば願いがかなうと言われています。しかし風が強く平らなつるつるの木製の釜蓋はよほどバランス感覚がよく、ちょっと頭が平らな人でなければ成功は難しいようです。二人とも挑戦しましたがダメでした。これ以上幸せにならなくていいのだろうということで自分に言い聞かせたことでした。
次は開聞岳を望む公園二つ。一つは番所鼻自然公園。ここも開聞岳を遠くに望む公園ですがここの姿も美しい。絶景です。岩場には自然のプールができていて海は割りと荒々しく先ほどの長崎鼻とは一味違います。伊能忠敬が日本一の絶景と賞賛した場所とか・・!ここからの開聞岳は連なった山々の先端に位置し、右からの波と風を受けマリンブルーとスカイブルーを切り裂いたように聳えています。いつまでも見飽きない光景です。次にそろそろ帰路に着かねばなりませんが、もう一つ花瀬望比公園は戦没者の慰霊公園ですがここは開聞岳の本当に麓にあります。知覧から特攻で飛び立った機体はこの開聞岳を富士山に見立て家族を守り祖国の永遠を願って旋回して南の海に去って行ったそうです。その彼らをこの場所で慰霊してあげる人々の優しさだと思います。なんだか切なくなる場所なんですが、見あげる開聞岳と海の優しさが伝わってくる場所でもありました。
一日付き合っていただいた迫さんには本当に感謝します。16:20の空港バスまでお見送り頂きました。
指宿から頴娃、枕崎にかけての景色と多くの温泉、霧島の神々しさと花ともみじに包まれるで山の素晴らしさは本当に顕しがたいものがありました。
できれば試合でも満足いく結果が残せれば言うことないのですけどね、欲張りでしょうか。。

2013.5.7
この連休はテニスに始まりテニスに終わったというものでした。4つの大きな試合が続くとどれかを選択するとどれかが犠牲になります。そんなことはどうでもいいから選択するしかないというのも事実ですしね。
5/3の東大阪超壮年大会、この大会は小早川さんと組むきっかけになった大会です。今年は私は60、彼は55で出ました。結果は55優勝、私は福谷さんと組み3位でした。前回の若水杯でちょっと感触を掴んだかなと思いました。予選リーグでは危なげなく、またトーナメント1回戦の堤下・堀内ペアでは先行2ゲームありましたが、追いつけて逆転。勝負やアタックのディフェンスも完璧ではないですが当たるようになり上向きを確認できました。ただ準決勝の谷本・小森ペアには自分のボールに切れがなく決めなくてはならないところでフォローされたりしてポイントが取れず、ゲームは競るのですが取りきれず④-0でした。まだ体が前に行っていないと自分でも思います。これが勝てない原因であることは明白なんです。決勝の吉野・東vs谷本・小森ペアの試合を見ていてつくづくとそう思いました。小森さんは迷わず出ていきます。東さんもまた同じです。打てばコントロールできないことを彼らはよく知っています。中間の速さのボールは見せて、シュートボールは取りに出る・これを徹底してやっているだけですが、後衛とのコンビネーションが素晴らしくよく見えます。次は参考にしてみようと思った試合でした。
5/5は神戸山手クラブの試合です。15年チャレンジして決勝でマッチポイントもあり、絶対的に有利な時もあったのですけど取りきれず未だ勝利がありません。60の節目は狙いたいものです。しかしプログラムを見るとすごい強豪が揃っています。これをかき分けるのは並大抵のことではありません。試合に入ってみると新開氏が絶好調。若水の好調をキープしています。私も東大阪を経験し調子は上り坂です。予選は2試合とも④-0で突破。トーナメント1回戦は音川・津田ペアです。少し試合から遠ざかっていたのとロブが弱いことを攻めて④-0。準決勝は常久・高田vs福谷・直原ペアの戦いです。剛球の常久さんと柔らかい福谷さん、前衛は技術的には対等かと思われますがいい試合が期待できます。対戦するなら個人的には展開が直線的な常久さんの方がやりやすいですが、新開氏はコントロールしやすい福谷さんの方がいいのかも知れません。私はあまり対戦するチャンスのない直原さんとやってみたいという気持ちに変わりはありませんが・・。後衛の対照的な二人ですが常久さんはそれでもそれでもサイド・センターを突いて行きます。福谷さんと高田さんはペアでしたので高田さんは福谷さんのコースをよく読み着実にポイントを重ねます。しかし直原さんも華麗なプレーで応戦、福谷さんも高田さんのセンター、サイドをうまくかわしまた攻めていきます。一本一本が息詰まる展開です。素晴らしい試合を見る機会を得たことに感謝です。直原さんが少し練習が足りていないので後半追いつけていなかったかなと思います。それでもファイナルの8-6でした。常久・高田ペア勝利です。常久さんの真剣な瞳はいつもの試合とは全く違っていました。勇者は勇者に対してのみ牙をむくのです。私もそのような相手として見て貰えるように頑張りたいと思います。
10分の休憩後に準決勝が始まりました。しかし集中力はそう長くは続かないものでしょう。一度試合が終わりその10分間の間に気持ちがゼロ以下になってしまうことを私は4/29の若水杯の木下・生駒戦後の決勝で味わいました。ソフトテニスは集中力と弛緩の繰り返し、これをコントロールすることが本当に大切なのです。そう考えると相手にしているのは自分の心以外の何者でもないと言えます。そういった心の強さを持ったペア達を思えば私は尊敬してきたのです。トーナメントは一日を通じてのドラマです。誰もがプロデュースできるしヒーローにもヒロインにもなれるしまた悲劇の主人公にもなれます。ピエロにもなれるのです。いいプロデュースをしたいものです。常久さんたちは明らかに前の試合とは違っていました。挑戦する我々の心と大試合をこなした彼らとは大きな隔たりがあったようです。1ゲームは少しこちらが引き、落としました。同じ心で戦えば分からなかったでしょう。この日はラッキーに④-1で勝つことができました。次は万全でお相手お願いしたいと思います。
他の山からは木下・生駒ペアvs客坂・宇崎ペアの勝者ですが客坂・宇崎ペアが上がってきました。宇崎さんは緒方さんと組みいつも上位に来る運動量の大きなそしてミートのうまい前衛さんです。一試合目の常久さんの剛球をいとも簡単にボレーを止め一位で上がってきました。その後の試合も危なげなく1,0です。ここは気を引き締めて行かねばなりません。この日の新開氏は手がつけられないといった表現が適切です。僕は前回の東大阪の教訓で体が前に動き出し簡単にボレーが決まりました。客さんも宇崎さんもどうしようもなかったことでしょう。新開氏40年、私の15年のチャレンジはこうして終わりました。山手クラブの浜本会長はことの他喜んで下さいました。明日が大阪府社会人と今夕予定があるため、山手クラブの懇親会に参加できないことに残念がって頂き有り難くお気持ちだけ頂戴しました。
5/6大阪府社会人選手権です。こうも試合が続くとやはり体も心も疲れてきます。最後の試合です、この連続した緊張を持続できる心身ともの修練として臨みます。12ペアの参加でいつもと同じ、そして春の府民大会と同じ3ペアのブロックです。仕方ないですね、組み方を考えなければいけませんね。従来の組み方はもはや古いでしょう。同じクラブであることなんかは何の意味もありません。そこに固執すればトーナメント自体がおかしくなります。既にそうなってしまっています。硬式テニスもトーナメントのシード権と順序を前年度の実績から現在のランキング毎に次のトーナメントに反映させるということに、変わりました。現在の方式に変えていく勇気と決断が必要です。一年経てば変化するものが大きいソフトテニスはもっと柔軟に対応したほうがいいでしょう。
大阪府の大会は種別が多いこと人数も多いことより1大会が一ヶ月近くかけて行われます。雨で順延となればテンヤワンヤ、昨年は3月までかかった試合もありもはや試合の興奮も気概も感じられませんでした。今回1日で一堂に会して実施され他のクラス、特に一般男子のプレーを見ることができ色々考えさせられるものがありました。それはさて置き、やはり大きな大会は素晴らしいと感じます。運営する側は大変ですが、この試みは本当にいいことだと思います。かつてない新鮮さと雰囲気を感じました。是非とも続けていただきたい。そう思います。
リーグは初戦小山・角田ペア。府民大会では癖を知らずまた僕のキレも悪くファイナルまで行ってしまいました。今回は最初から弱みを見せず、また得意なバックは封印させて0勝ち。福谷さんも気合が入ってます。2試合目は8試合後。かなり待ちに疲れるのですが今回は東北支援のTシャツを販売しています。協会の皆さんが交代で店番に来てくれます。いい感じで回っていきます。谷本・小森ペアとはここ2年くらい分が悪く殆ど勝ててません。もちろん谷本さんの打球力が増し、持ち前の球持ちの良さに加えてパワーがアップしたのはあります。加えて小森さんの積極性が増してどんどん出ていくプレーがうまくかみ合っているのです。逆に僕の無難なプレーがギリギリのところでは気持ちでも圧されてしまっていたのでしょう。爆発力がなければ相手を圧倒できないのです。それは全てではないのです。綱引きの勝負の一本です。そこで圧倒すればいいのですが、それができないでフラットに対応してしまう。これではテニスの技術はあっても勝負には勝てないのです。勝負事とはそういうものです。
調子と気力が上向いてきた僕と2度は連続して負けないという意識の福谷さんは最初から隙を見せないでビシビシと厳しいコースを突きチャンスボールは積極的に取りに行く戦法で行きました。やはり攻めていく気持ちが大切です。終始圧して勝負が決まりました。
準決勝は吉野・高田ペアです。高田さんは神戸の勝ちもあり、そこでは余り動きませんでしたが今日は一本目から真ん中に立ちドシドシ攻めてきます。決して二人共調子も悪くなく気力もあるのですけど先手を取られたという格好です。3ゲーム先攻されてしまいました。次のゲームを取り5ゲーム目もデュースが長かったのですが僕のボレーイージーミスから福谷さんに少し力が入りストレートラリーバックアウトでゲームセット。申し訳ないボレーミスでした。
ただ、福谷さんとの息も合ってきて近畿大会は何となく行けるのではないかという予感がします。楽しみな月末です。

2013.5.2
昨晩は体育館で練習しました。4/29の疲れと筋肉の痙攣の後遺症は意外にも大きくてまだ痛みがかなり残っています。回復が遅くなっているのはやはり年齢のせいなのでしょう・か。ただ、ボールの対応や感覚は少し戻ってきつつあるのかなと思います。速いボールへの対応はラケットが出るようになりました。しかし緩いボールにまだ体が十分ついて行っていません。頭ではわかっていても対応ができていない・情けないことです。
そんな訳で今日は一日体を休めることにしました。レディースや他のクラブの練習日でして明日は東大阪の超壮年が開催されますし少しはボールに触っていたほうがいいのかも知れませんが・・とにかく回復の方が大切でしょう。

2013.4.30
4/29は香川県高松市で若水クラブ杯が開催されました。今年は一般男子も非常に多く参加してトーナメントで40ペを超えていました。大会が多くなっている昨今、雨での予備日などと重なると一挙に参加が減ってしまいます。しかし今年はそうではありません。特にシニア55以上の部は非常に多くの選手が集まりさながら西日本シニア選手権に近い状態です。リーグも強豪が揃い誰が勝ち上がるかわからないといった4ペアリーグでした。試合前の予想では常久・高田、須藤・青砥、黒田・片山ペアなどは楽々通過すると思われましたが陥落。トーナメントに入っても我々の下には原田・小野ペアがいて強敵だなと思っていましたが、畑本・松岡ペアにファイナル負け。畑本さんの打球力は昨年とは見違えるようにパワーアップしています。あとで聞けば、退職して時間が十分あり練習が足りているとのことです。週4日くらいはやっているとのことです。また松岡さんとのペアも安心してやれるのでしょう。自由に打っている感じです。best4決めはこのペアとです。取って取られて3-2までリードしますが押しきれずファイナルへ。そこはガッチリ行って④-3で勝ち。本当に畑本さんはミスがなく安定しています。松岡さんは思い切りの良いポーチで何本も取られました。何本かフォローが拾えてそれが功を奏しました。それでも7-4でした。5-4からのストレートポーチは自分でもよく行けたと思います。
準決勝は木下・生駒ペアとです。一足先に60になられたので最近対戦が減りました。木下さんは少し腕の調子が悪く今年初めての公式戦です。どうかなと思ってみてましたが、初戦を落としましたが後は結構よう打っていたなという感じで強い打球が行ってます。我々の試合は最初からビシビシ打たれあれよあれよで0-3。しかしここから木下さんが急に崩れミスの連発です。気がつけば2-3まで追い上げています。6ゲーム目は1-3から2本凌ぎデュース。そこからお互いに譲らず、すべての選手がいいポイントと崩れを演じました。気がつけば10回くらいマッチポイントを凌いでいます。しかしゲームを取りきれないのは最後の執念が足りないのでしょう。速いラリーの連続で前衛は足が動かないくらいパンパンです。我慢に我慢をしていると比較的甘いサイドパッシングが来ました。やっと来た!ここぞと打ち込んでそのゲームを取り形勢が一挙に当方に傾きました。3-3です。こうなれば新開氏も一気呵成に打ち込みます。ボールも可哀想なくらいシバカレます。そして勝利。終わってみれば精根尽き果てたというのはこういうことなのでしょうか?充実感と共にある種の脱涼感が広がります。本当はこの感覚は一つのトーナメントが終わった時でないといけないのです。準決勝で力を出し尽くした我々には決勝を勝ち抜くだけの力は残っていなかったのです。決勝は安東・脇山ペア。脇山さんも足を引きずってます。そういった色々な条件から既に心に隙ができてしまっていました。戦うということは相手の弱点を見つけ、そこを徹底的に攻めていくことです。健康体のペアを相手にしたなら必死でそれを探すでしょう。しかし目に見えている弱点を攻めることができない・・これは誰しも経験するでしょうし、そこで負けたことも多いはずです。原理原則から言えば全く間違っているのです。勝負とは冷たい心で徹底的に激しく相手を打ちのめすことです。情を捨てきれなければ思いを成し遂げることはできないのです。自分たちが足の痙攣があったとしても、たとえ骨折していたとしても、それを圧してまで戦いに出るということはそこを攻められることは覚悟の上でやっているのです。戦いは自分の精神力と技術力のパフォーマンスなのです。もう一度このことを心に刻んで再スタートを切ります。
以前にも一度書いたことがありますが、ソフトテニスは一日を通じて多くの試合をこなさなければ優勝はできません。精神の集中と弛緩を何度も繰り返すので心も体も常に一定に保つことが難しいのです。一日の過ごし方、試合での力の使い方はソフトテニス競技者にとっては永遠の課題です。途中でファイナルゲームを沢山やるのと体力を温存して最終のチャンピオンゲームに全てを賭けるように体を持っていくのでは違いますし、精神力も同じです。息も絶え絶えあるいはホッとして決勝に入るのはどちらも勝利には遠いものです。体力も残し徐々に上げていき、精神力もグッと決勝に集中できるように行きたいものです。こんな時はいつも畠中さんの言葉を思い出します。・・一日のうちでどこで集中するかを間違えてはいけない。

2013.4.28
昨日、今日と久しぶりに高校生のインハイ予選に行ってきました。3月末から見始めたのでまだ公式戦の戦いぶりは見たことがありませんでした。しかしまず驚いたのは、大阪府のブロック予選会の選手の数の少なさと技術レベルの低下です。たった15年くらいでこんなにも技術の伝承がなくなってしまうのか・・ということでした。子供たちの意識の低さもあるでしょう。体力の低下もあるでしょう。遊びの数の増加や進学のための塾通いなど子供の自由な時間は減ってきていることは事実です。しかし何と言っても、一番大切なものはこの競技を面白いと思う気持ちが子供に芽生えなければならないのです。僕がこのスポーツをやり続けているのは、最初に見た先輩たちがラリーしている姿が何ともカッコよく見えたからです。今でも目の裏に焼きついているその姿は、中学生とは思えないほどの高い技術を持っていたと思うのです。そういった素晴らし姿を見せる技術が今はないのでしょう。サッカーなどで素晴らしいシュートを放ち、グランドを疾風のごとく駆け抜ける選手たちは今の子供たちには憧れでしょう。プロもあり頑張ればあのようなピッチに立てるという夢も身近なものと・・幻想を抱くことができるのです。
今のソフトテニス連盟の考え方はやはり間違っていると思うのです。ジュニアを育成したため、ある意味ではプロの選手を育てるエリート機関を特定の中学・高校・大学に作ってしまいました。ジュニアで揉まれた選手が中学に入り、クラブに入る。そこには用意ドンでスタートするのでなく既に格付けされたエリートがいる・・いくらやっても追いつけない絶望感でますます生徒が入ってこない。悪循環です。さらには先生にソフトテニスの指導ができない。また生活指導で忙しく、クラブはただやらせているだけという状態が続くのです。ソフトテニスが学校教育・クラブに依存しているならそれでいいではないですか?先人たちが100年をかけて積み上げてきた貴重な財産です。そこを大事と思うならもっと学校に働きかけてせっかくあるクラブ活動を充実させる努力をするべきではないのでしょうか?しかし、そのための努力は何らされていないのです。一つの可能性としては、学校の外部コーチを積極的に活用して、シニアや大学生のアルバイトとしての地位を確立する。今まで過去の歴史からもソフトテニスのコーチなどはボランティアが当たり前のような通念がソフトテニス関係者にもあるのです。しかし、今のような状態を克服し活況をもたらすためにはソフトテニス連盟ももっとお金を有効に使用するべきなのです。FIFAが組織を大切にしているのは有名です。我々も身近なところに当たり前に存在しているものがいつの間にか消えていくことを予測しなければなりません。放ったらかしにしておくとあと数年もすれば高校も中学もソフトテニスは消えていくスポーツの一つになっていくような寒気を感じたものでした。

2013.4.26
4/7府民大会、4/14北村全国大会、4/21天長杯と3大会連続で入賞ならず。60歳となり仕事はやめ、練習もまあ足りていて体調も悪くないのに勝ちから遠のいています。後衛さんとのコンビネーションが悪いということもなく、押しきれない、なんとなくズルズルと負ける、相手のバカ当たりを受けきれない、といった負の連鎖が続きます。集中力を高めてそろそろ仕上げていかなければなりませんね。毎年スタートが早すぎて7月ごろには疲れてしまうといった状態が続きました。そこでいつから試合に集中していくかということですが、5月頃から勝つ練習が必要かな・と思います。人間というのは昨年のことは忘れてしまうのでしょうか?毎年同じように調整をして仕上げていかなければなりません。昨年分かったことはもう繰り返さねばいいはずなのですけれど。人は忘れる動物です。3ヶ月程度しか体と頭は一致せずどちらかが忘れに入るようです。経験上そう思います。みなさんはいかが?

2013.4.25
週初めから松本⇒前橋と車で行ってきました。要件はお見舞いとお悔やみと・・いい事ではないのでしたが、人生の重大時には旧知が顔を合わせたりして励ましたり気持ちを温め合ったりすることは人間の優しい部分です。一人では生きていけないが集まってなら生きていける、それが人間の社会なのでしょう。孤立化していく現代の風潮は人の本来の姿を忘れているものではなのではないでしょうか。
4/22月曜日はとてもいい天気でした。先週末が寒く雨が降り関東では積雪がありました。長野自動車道に入ると両側に雪が残っています。桜もまだ咲いていて3年前に訪れた時と同じくらいの季節感でした。丁度花桃の最盛期のようで高速道路から綺麗な花が雲のように漂っています。一本の木から3色くらいの花びらがでて、色は桜よりも紅く梅よりも白くそして桜色の3色が見事な調和を保っています。遠くの山々には雪がまだまだ多く残り山々の稜線をくっきりと縁取り、空との境を一層際立たせます。空が青くなっていくこの季節は雪山と花とが混在してまだまだ初春という感覚を信州では感じるのです。ちょっと前の中央道では飯田に入ると林檎畑に真っ白いりんごの花が一面に咲いています。栽培用の林檎畑は収穫しやすいように人の背の高さに木を揃えまるでぶどう棚のようになっているのです。花はその棚一面に咲き誇っています。りんごは寒いところで採れるものと子供の頃は思ってましたから、近くに林檎畑はなくそんな光景は本当に新鮮に映ります。目指すは松本の信州大学病院ですが、まずは塩尻に入ります。山から降りるところは本当にかなりの積雪です。週末の寒さがうかがわれました。しばらく走ると松本に入りました。奈良盆地と同じくここも広大な盆地です。更に進むと安曇野ですがこれらの土地は南北につながった盆地にあるのですね。実際に旅をしてみないとどのような位置関係なのかがわかりません。今回はよくわかったものでした。松本に入った頃から周囲の山々が雪を抱きこの土地は山々に守られてきたのだと錯覚するくらい素晴らしい風景が広がっているのでした。近くにある少し低めの山の外側に凍りついたような雪を抱き白さも眩しい神々しい高き山々。。街に入ると、昔の城下町の名残が至るところに有り、少しタイムスリップしたようなムードを持っている優しい街・・そんな感じの松本は何となく高校の学生時代に通った津山のイメージが思い出されるものでした。人が作り上げた街という生き物は人と共に有り人を作りやはり成長し変化していくものです。しかし、誰もが悪くなることを望まない、そして衰退していくこともまた然り。変わらないでいてくれることも人はホッとするものだと気づいたのはかなり年を重ねてからでしたが。
僕が群馬にいたのはもう40年くらい前のことです。その時友人たちは同じ空間で同じことを学び同じように笑い同じように時間を共有していたものでした。しかし40年という時間は長いものです。とてつもなく。その間に殆どの友人は親をなくし、気がつけば四方八方に散り散りになった砂粒のようなものでもはや見つけ出すことさえも難しい状態になってしまっています。前橋の友人は医者でした。正確には奥さんと大学のクラスが一緒でその旦那とも知り合いといったところでした。外科の医者でしたが酒もタバコものみ気づいた時には肺がんが進行・進行が早く、前回検査では異常なしとのこと。63歳はまだ若いのですね。自由に生きた人ですが、これからゆっくりできるかな・といった時に病気になるのは辛いですね。奥さんもやはり支えを失ない空間を埋めるのができないようです。難しいものです。
健康に生きていくことは理想ですけど、運以外にないのでしょうか?

2013.4..2
4月になり、少し暖かくなりました。昨日は朝、高校へ。高校生を見ていたのはシニア47くらいまでですから、かなりのブランクがあります。その間にルールも変わり、生徒の気質も変わり、また自分自身が歳を取り年齢のギャップはますます空いています。果たして子供たちと意思の疎通ができるのだろうかと不安にもなります。先生は確かに昔からよく存じ上げているのですが、昔のイメージで私を見てもらってもやはり違うでしょうし、今をどのように乗り切っていけばいいのかも暗中模索といってもいいでしょう。新たな人たちと作り上げていくテニスはしかしながらなんとなく楽しくなりそうな雰囲気です。皆テニスが好きそうですし、自由にテニスをやっています。
私がテニスをやっていた学生の頃といえば、楽しみももちろんありましたが、秩序が大事でした。だらけてしまわないように上級生たちは厳しく下級生を指導しました。暴力は一度も受けたことはありませんが、シゴキという過剰なトレーニングは本当によくやられました。サボっときの罰の意味もありましたが、やはりクラブ活動の弛緩抑制力にはなっていたと思います。テニスをするということが、今では一本でも多くボールに触ることが大切だと思います。限られた時間の中で、辛いトレーニングやシゴキに時間を割いている間はないでしょう。ただ・・高校生頃までの間はある意味では人格も形成途中の段階です。その中で自分たちが秩序を保とうとする努力を我々の時代はやってきたと思うのです。当然自浄作用も育ってきますから行き過ぎも抑えられます。他人のことと見て見ぬふりをしたり、完全に他人事と無視したりすることは無かったと自分では思います。今までの学生生活で教師のクラブ指導を受けたことは殆どありませんし先生は関与しないものだとも思っていました。高校時代に、私学とかテニスの有名高には先生が張り付き指導をされていました。それによって強くなったのも事実でしょう。しかしそれは当時から私は必要ではないと思っていました。人には目があり耳があり考える頭もあります。そして当時でさえ成書がありました。今のように雑誌やインターネット、youtube動画で情報が氾濫する時ではなかった。でも硬式の「チルデンのベターテニス」などは考え方や戦術などソフトテニスにも十分応用できる素晴らしい本でした。素晴らしい先輩のフォームを硝子窓に映して自分のフォームを修正し、数少ない写真を何度も頭に叩き込み、練習試合に行った時などは他校の生徒が言われていることを横で盗み聞きしていた事などを思い出します。
今の時代は氾濫する情報で目も眩むほど素晴らしい先生群が存在しているのです。今の学生がそういったことで情報を得ているとは思いませんが、少なくとも見た子供たちは運動能力がかなり高いと感じました。うまくすればかなりのところまで行けるでしょう。ただ自分たちが自分の力を発掘し自分の心を覚醒し、自らの力で自分たちを太らせていけるようにしてやることが私の仕事では有りましょう。どの時代の人間でも自分に自信のあることは進んでやるものでしょう。きっとそこは変わっていないと思います。大切な子供たちを輝かせることができるだろうか?今は不安もあります。これからです。

2013.3.22
東京から帰り時間はあっという間に過ぎていきました。3/15には以前の会社のグループや関連の仲間たちが送別会を開いてくれました。一番長い研究と生活を共にした彼らは自分たちが主力商品群の開発担当者でありそれぞれが私と共に苦労をして製品を産み出しフラスコから商品化までを完成させてきたことを知っています。それぞれが真剣であり悩みもしたし挫折もあったが、しかし最後には成功体験があったことがお互いの信頼を産み絆が深かったのです。彼らが一人一人横に座り色んな思い出を語ってくれます。私の中では消えてはいないけれども一コマであることが、彼らにとっては転機であったり自信となった一瞬であったりしているのです。改めて36年の重みと少しは若い彼らの指標になっていたのだと分かり穏やかな感激が緩やかに心に満たされていきました。たくさん出席してくれた彼らは思い思いに話しています。彼らの顔は至福に満ちているように感じました。それは思い過しであったかもしれませんが、過去が走馬灯のように僕の頭を駆け巡り、まるで自分だけが止まっていてスローモーションのように緩やかに動いているように感じたのでした。最後に挨拶をしたのですが、もはや彼らには感謝しか言う言葉と心以外ないのだと気づきました。これから何年も過ぎて会社のことで何かを思い出すとしたら、仕事の内容でもなく実績でもなく、きっとここに集まった仲間のいま僕に向かって見つめてくれているこの親愛に満ちた笑顔であるのだろうと思っています。
会社は食べるための糧を得るための場所であります。でもね、生きている一日の時間の1/3以上を仕事で費やすのです。この時間が充実していなければそれはそれは不幸なことなのです。僕は恵まれていました。仕事にも仲間にも。それが何者にも代え難い財産でありました。
3/17は吹田スーパーシニアカップでした。八尾からは45/55/60と3クラスに一ペアずつ参加しました。残念ながらどのペアも予選リーグを勝ち上がれず悔しい結果でした。我々について言えば4ペアのリーグ戦で、堤下・阿部、谷本・小森、新開・高原、・真下のいずれ劣らぬ猛者ぞろいです。真下ペアには④-0で勝ち幸先いいなと思いました。次は堤下ペア、谷本ペアの試合でしたが、激しいいずれ劣らぬ名手たちの戦いでした。1-3から堤下ペアが追い上げ逆転で勝利。次は我々と谷本・小森ペアの対戦です。谷本さんは昨年小森さんと組み始めてから粘り強く、更にライジングからのトップと中ロブを使い分けるようになりました。ペアの小森さんは同様に厳しさを持ち、勝負どころで出てくる勇気を身につけてきました。昨年も多くの試合に上位を占め、特に全日本シニアでの篠辺・村上戦ではがっぷり四つに組んだ試合を見せてくれました。彼らに対応するには先にミスはできませんが合わせてもいけません。やはり新開氏のスピードボールで崩していくことが勝利に近いでしょう。後は谷本氏の得意を僕が封じていくことです。抜かれることを恐れては生まれるものは少ないと思っていました。ミスが続き粘り負けしたりdueceになるのですけどポイントを掴めない。あっという間に0-3です。このまま負ければ次の試合に勝っても上がれません。最低ファイナルで負け、そして勝つことが条件になってきました。チェンジコートでそのことを確認しゲームに入りました。一球目、谷本氏がクロスラリーをイージーミス。これからリズムが崩れ次第に新開氏が調子を取り戻してきました。流れは完全にこちらに向き彼らは防戦となりました。6ゲーム目もつれましたがファイナルへ。これで谷本・小森ペアのリーグ上がり可能性ははほぼ無くなりました。第一段階まではクリアーです。ファイナルの一本目、新開氏が押し込んだストレートポーチをボレーミス・・少しボールが遅く待ちきれませんでした。これで彼らのやる気を復活させてしまったのではないかと思います。その後ももつれ4-4まで。ここから最近の試合での押し込んでいく強さが欠けているところが出てしまいました。最後もストレートからノータッチ中ロブをサイドアウト。これは気の問題だと思っています。今年我々は60の部での頂点を目指して西日本・全日本を組むことを決めました。僕は多くの試合に出ることを決めています。どんな人と組んでも自分のプレーが迷いなくできること・それが前衛には大切です。後衛も弱気もあれば強気もあります。しかし後ろを見ていては真のプレーはできません。どんな状況でも、どんなペアでも気配で背中で彼らのボールを感じることができなければダメでしょう。それができて前衛の仕事が始まったばかりなのです。その修練のために今年はいつも以上にたくさんの人と組んで多くの試合に出るつもりなのです。では後衛の課題は何なのでしょう。僕は何度も彼に聞きますが、自分の調子だけだといいます。下半身の強化と強い心を取り戻す、そうなのかも知れません。後衛が自分に自信を持ってくれればそれはきっとそれで勝てる可能性が出てくるのでしょう。でも少しまだ違うんではないかと思います。ただ、彼は僕を信じてプレーをしてくれています。それが一番大切なことではあります。今勝てないのは新開氏の調子ではなく、安心感を与えてやれない僕のせいかもしれないな・・と反省しているところです。調子の悪い時でも何とか二人で勝っていく工夫をする・その信頼する心のベクトルが合っていないと勝てないですね。
次に勝てば可能性があります。今日の堤下氏はしかし鋭いクロスが何本も飛んでいます。先日八尾インドアでペアを組んだ時も完璧だなと感じました。最初に取っておかないと好きに打たれれば厳しいので一ゲーム目をボレーに行きました。堤下氏とは毎週水曜日に夜練習をしています。だからお互いにいいところも悪いところもわかっている、分かりすぎているので心も含めて勝負と駆け引きが大事です。先手必勝1-0、その次のゲームも0-3でこれでGC2-0だな・・と思ったのが落とし穴でした。あっという間に追いつかれ1-1、これは大誤算でした。精神的に優位に立つということができなくてタイに。後はポイントをしても取りきれないで1-3まで。勝負どころで阿部さんのポーチも効いていました。でもまだファイナルでの勝利でポイント差勝ちを狙いに行けます。もう一度仕切り直しで2-3。次のサーブで一本目を再度中ロブをチップ。次は逆ストレートをクロスに思い切って抜かれて0-2。ここで勝負はありでしたね。このポイントを押さえておけば分からなかったです。あとで蔀さんとも話したのですが、これを取っておけば行けたかもね・と。やはり今日は心がざわついていました。もっと冷静に燃えなくてはいけないのです。炎のように激しく体は動いても心は氷のように冷たくなくてはいけないのです。結局2敗してしまいました。ただ今、冷静に考えると今日はとてもいい練習をさせていただいたのです。決して練習試合では得ることのできない緊張感の中でやりきるためには何が必要か、それが確認できたのですから。
この試合はとても厳しいメンバーです。60の予想では福谷・直原、常久・高田、吉野・東ペアは予選をクリアーするだろうと思っていましたが、クリアーしたのは福谷ペアだけでした。彼らは殆ど苦しまないで優勝したと思います。福谷さんの配球とストロークの強さ、そして直原さんの無理のないボレーとスマッシュ、そしてポジショニング。見ていて安心していられるものでした。後衛と前衛のバランスを考えそしてあくまで後衛を信頼するのでなければソフトテニスは勝てません。ゲームの途中で不協和音を発するペアは、やはり最後までは勝ちきれないのです。

2013.3.13
今日で節目となります。皆さんからのお祝いメールがたくさん届き感激していますが、そうなのだと改めて感じることでした。自分で意識をしていなくても確実に人は感じさせてくれます。人生は人によって知らしめられるものなのかもしれません。
3/7~3/12まで静岡から東京に行きました。3/9までは既に書いたとおりです。3/10は東京を車で駆け抜けました。一方通行と車線変更禁止の上に工事中が多くてナビ君が迷います。しかも環七から青梅街道はメチャ混みです。そうした所に大学時代の白田さんからメール。珍しいことです・・」こんなメールはなあ、と思ってみるとやはり良くない知らせでした。下宿を一緒で同窓の神尾さんの主人が他界。故人は医学部で昔から自由人、群大卒の外科医でしたが、本人は酒とタバコが大好きでした。肺がんで昨年手術した時には初期と思われてましたが脳への転移があり終盤は苦しかったようです。医者の不養生と言いますが、昨年の定期検診では見つからず、若いだけに進行が早かったそうです。若いと検診は年2回くらいいるんじゃないかと言ってました。ただ、今回のその後の治療は群大病院で外科部長も執刀医も殆どが後輩で完璧だったとのこと。娘さんが京都府大の内科医なので医者の用語は十分に理解できるのです。電話でひとしきり話をしましたが、また日を改めて行くことにしました。悲しい知らせでした。ただ何が起こっても不思議でない年代です。覚悟はいつもしておかなければなりません。他人にも自分にも。
11時に新開氏を拾い相模原の三菱重工練習です。羽田から横浜まで行き16号線を相模原まで行くのですが、高速をおりてしばらく行くと渋滞。東名高速も事故で通行禁止となっていてそちらからの回避車もあったのでしょうか・大渋滞です。数キロのところを2時間近くかかってしまいました。天気は快晴、到着すると広大な土地にテニスコートがオムニ8面、素晴らしい環境です。メンバーは,小澤鈴木、阿部・姫野、木本・中村ペアがいます。我々は木本ペアにはファイナルで勝ちましたが、小澤ペアには2試合して2,0で負けました。決して後衛の調子は良くないです。60歳になると皆が余裕を持っています。そんなに焦ってもしようがない。穴ができるまではいくらでも繋ぐよといった余裕すら感じます。力でねじ伏せるだけのボールに威力がないことを彼らは知っています。それだけに苦しくならないプレーを心がけ、勝負できる展開からは厳しいボールが飛んできます。55歳は後衛のボールに力もあります。しかし60歳はそうではありません。引っ掛けられればボールが入ってしまうことを彼らは知っているのです。我々はそれがわかった上で試合の組立を考えなければなりません。課題が練習では見えました。木本さんは腰の調子が良くないということですが流石にボール扱いはうまいです。かわそうと思えば攻めてくる。上手さでは勝てません。ではどうすれば・・自分の中ではモデルは軟投型・コバちゃんとか綱島さんですが、彼らは真っ向勝負に弱いです。一球はいいですが2-3球となると躱しきれず甘くなります。そこを攻めていけばいい。新開さんなら最も安定したコースではないですか。今日はそれを試して成功しました。しかしミスはやはりダメです。あっという間に追いつかれてしまいます。要注意だなという感じでした。敵は内に有り!
3/10の試合は、同一ゾーンに中島・須藤ペア。やってことないので全部が勉強です。新開氏のサーブが入りスマッシュ・・ミス。2本目逆クロスへシュートサイドへフラフラと・・スマッシュに合わせて下がっていてローボレーミス。0-2から追いついてジュース長かったのですが落とす。レシーブキープで2-2まで行ったのですが、3ゲーム目は3-0から連続5本落とす。こんな日は勝てるわけがありません。ゲームカウント3-1と2-2は雲泥の差です。5ゲーム目も長かったのですが落とし、結局最後の6ゲーム目に須藤氏に仕掛けられてポイントを失います。冷静ではなかった。2枚腰どころか焦り狼狽する姿があっただけでした。
2試合目は土方氏、今日で3回目の対戦です。でも単調なラリーとバックハンドがあまり得意でないのでそれさえ封じておけば何も怖くはないはずですが。ラリーは1-2本で終わるなら結局前衛は絡めないことになります。前衛さんは上手かったけれどもそれほどでもない。そこに負けるのは1試合目の敗北のショックからか心が折れていたのでしょう。ただ、中島ペアはもうひとつのペアに負け、我々が2敗したので最終戦を待たないでリーグ落ちが決まってしまいました。中島ペアも我々に勝ったのに取りこぼしで落選です。リーグ戦はわからない。最後まで集中できず怠慢だった我々がいけないのです。
その日は大荒れの天気でした。pm2時までは快晴でした、が風は荒れていました。14時頃急に空が暗くなり風も春の嵐のようにきつく巻います。あっという間に黄色い粉が降ってきたような凄い光景となりました。煙霧ということだとうのは次の日知りました。その時は中国から飛来した黄砂・PM2.5と信じていましたから。決勝は木本・中村vs小澤・鈴木だったようです。あの煙霧の中に出る勇気もなく収まるまでじっと待っていたのでした。
その日は知り合いでは中村さん以外は成績も悪く天候のように大荒れでした。夕方は東京にいる姪と食事をして新沼氏夫婦と岡山から来ている松本さんと4人でカラオケに。
3/11 朝はゆっくりと起きました。その日は忘れもしない2年前の震災の日です。TVでは特集が組まれ復旧の様子や2年間の心の変化、変わらないもの変わったものを紹介していました。感じたのは、悪くて変化しないものは報道されます。良くなったもので変化したものもまた然り。しかし、報道とは一般受けがしないといけないせいか具体的に支援の金額がどれくらいで、実際の生活の様子への貢献度はどれくらいあるのかとか原発で働いている人の一日の稼働状況とか具体的にどういうことをやってどうしようとしているのか・といった具体的な実績やその費用とか予算状況とかは殆ど触れられることはありませんでした。遅々として進まない気仙沼、石巻、陸前高田、大船渡・・その周辺の被害の町の様子。原発の避難区域での若者や年配者の心のありようや今後への不安、なくなっていく古里の望郷感と寂寥感はよく伝わってきましたが。前向きに考える若者と子供のことを心配して古里を捨てる若夫婦。それは仕方がないことでしょう。自分たちが悪いわけでないのにそこに住みたいのに住めない悔しさは誰にぶつけたらいいのでしょう。そんなことを考えながら見ていると自然に涙が出てきます。新沼さんも奥さんも自然に出る嗚咽を抑えることができません。私たちはせめて自分たちのできることをあの人達にぶつけてゆきたいときっと3人で同じように思ったと感じました。いつまでも泣いているわけにはいきません。未来ある子供たちにできることを届けます。新沼家をおいとまする前に娘さんにご挨拶をしました。親より先に逝ってしまうのは親にとっては本当に辛いことだと思います。一年半彼ら二人は少しずつ乗り越えようとされて来ました。テニスや支援に没頭しました。人と交わっている時にしかきっとお二人の心は平穏ではなかったのでしょう。何をしてあげることも何もわかってあげることもできない僕はつくづく無力だと思います。でも、確実にお二人は乗り越えつつあるように見えます。見守っていてあげてくださいね。環状7号を通り17号へ。埼玉まで2時間若。次男に会いに行きます。着けば非常にローカルなところのマンションで、岡山時代の3倍はある空間に一人で暮らしています。健康に暮らしていればそれでいいです。夕方は会社の東京営業所の面々が送別会をしてくれるとのことで再び東京日本橋へ。もう二度と行くことのない東京営業所で挨拶をして、近くの居酒屋?かな。それでもなんやかんや話をして4時間くらいは経ったのですね、酒を飲まない次男はよく付き合ってくれました。
次の日はいい天気でした。九時過ぎに埼玉を出て一路大阪へ。首都高速から東名高速へ・・と言葉は簡単ですが、年中続く渋滞に悩まされ少しイラッとしながら東京を抜けました。そうすると後は快適なドライブ。一時間おきに休憩を取ったのでまあ疲れはなく大阪へ。帰路も富士が本当に素晴らしい姿を見せてくれました。東名が富士を回り込むように走っています。関西から来ると富士を後ろに見るのであまり見えませんが、東京からは本当に長い間富士山を見ていられるのです。・・これから何度富士を見るチャンスがあるのでしょうか?
久しぶりの大阪はいつもと変わらぬように見えました。明日から日常が始まります。

2013.3.9
3/7から東京方面に旅に出ました。愛車での遠乗りは九州旅行以来です。3/7は西名阪道から伊勢湾道を通り東名から浜松へ。約3時間ちょっとでしたが天気がよく快晴、無風。春が来たのだと感じます。浜松では大学時代の友人の吉田君の家へ。駅前の東側、以前は馬込町と言ってましたが政令指定都市になり完全に区画整理がなされたモデル街は中区中央と名前を変えていました。なんとなく味気なさを感じてしまうネーミングではあります。彼とはもう40年以上も前、18の春に知り合い、穏やかに過ごしていたのですけど、12年前交通事故で他界しました。亡くなる日に彼に電話をして次週の再会を約束していたのですが・・その約束は叶いませんでした。悔いというのはあるものだとその時初めて感じました。取り返しのつかないことがある。その時にはきっと分からないことなのだけど、後から考えると運命的なものを感じることがあります。それ以来、僕は人との約束はできるだけ延ばさないようにしています。人生は偶然の繰り返しと集積です。何が起こっても誰のせいとは言えないでしょう。その瞬間が、命を永らえさせているかもしれませんし、短くしているのかもしれません。ただ後悔したくないです。もし会っていれば彼はまだ居たかもしれない。現実は違います。それが運命と言ってしまえばそれまでなのですが・・。
午後からは磐田市に住む中学時代の親友である田中氏宅へ。岡山の田舎で育った彼が何故磐田にいるのか・それは彼の両親が岡山の柵原鉱山に勤務していたことによります。東洋一と謳われた硫化鉄鋼鉱山は掘り尽くされついに閉山となりました。大学を終了し、岡山で教員採用も決定していた彼は突然静岡への両親の引越しを聞かされます。長男であった彼は悩んだでしょうが、一緒に静岡へ移りそこで教員試験を再受験したのでした。中学の教員を目指していた彼の赴任先は小学校でした。免許を持っていなかった彼は通信教育で免許を取得しました。まさに青天の霹靂だったのでしょう。偶然にも私の会社の工場が隣市の袋井に有り私の仕事の大部分がその工場で生産する品目であったために、私は何度も彼の家を訪れ宿泊し、話しました。ご両親と私の父は鉱山仲間で普段知ることのなかった父の昔の様子を知ることができて嬉しかったことです。そのご両親も昨年他界され、家は静かなものになっていました。時は流れる・・それはそうです。我々が還暦なのですから。先の同窓会ではあまり話せなかった分、約12時間にわたりあれこれと話しました。思い出話はそこそこに今のこと、先のこと、それはそれはやはり何を話したのかもわからないくらい時間が早く過ぎます。気がつけば午前2時半となっていました。彼と話すと私はほとんど聞き役です。たくさん話せる彼は今のようにあまり話し相手のいない生活は苦痛ではないのでしょうか・と想像してしまいます。

3/10は静岡の工場へ。入社した頃は出来立てで、敷地も殆ど空き地でした。広大な土地に今は全てにプラントが立ち並び人員んも10倍近くに増えています。感慨深く眺めたものでした。そして見納めです。皆さんに挨拶をして、会社をあとにしました。一つずつ終わっていきます。天気の良さが少しだけ寂寥感を却って感じさせます。何気ない日常がもう遠いものになっていくのです。背中を向けて一歩踏み出せば、すっと気持ちも晴れやかに、新しい世界が待ってくれています。
東名を通り2時間半、阿佐ヶ谷に着きました。途中富士が春霞の中に雪を抱いてポッカリと浮かんでいます。何故富士がこんなにも素晴らしいのでしょう。あの姿が奇跡としか言えない山が何者をも浄化してくれます。
阿佐ヶ谷では大学時代の先輩と食事を。橘谷さんと言いますが、曲げられない性格といいマスカ、正直に生きてしまうのでしょう。アスペルガーほどでなく、社会性はあるのですけど、長いものに巻かれる人ではなく、心の中に公平性と社会正義が存在しているのです。先の田中君も橘谷さんも、その意味では同類です。。そして私も、そうなのだと思います。生き方を変えることはできないのです。曲げた瞬間に自己否定をしてしまうことがわかっています。そうなれば自己嫌悪で打ちのめされてしまうのだと・・崖っぷちで精神をやっと保っている人間もいるのだということを分かって欲しいとは思います。

2013.2.24
全日本インドアでは毎年不満に思っていた、審判の若返りと決勝・準決勝の対応の改善について、今年は少し前進が見られました。審判は若返りミスジャッジの確率は減りました。準決勝の4面同時進行は以前考えていたことで、決勝は1試合づつ見たいねと思っていたのですけど・・。準決勝は良かったのですが、決勝は相変わらず同時進行で集中力が途切れます。見る方もやる方も、チャンピオンテニスはじっくりと集中してみたいのです。今年の試合を時々見に行きました。今年は比較的ゲームが選手に集中が見られました。それは会場が何時もの年より静かだったせいでしょう。中高生がテスト前だったことで観戦が少なかったのです。観客が多いことは、経済的にも、社会的なアピールでも良いには決まっています。でも、この大会は割と動員が多く中には来たくない子供たちも多いのです。だから観客席に座っても友人たちとのおしゃべりに夢中・コートに目さえも落とさない子もいます。またサインを求めて走り回り会場周辺の通路で大声で叫び笑い合う・・これが正しいことではないと思います。私の古里のOBが組織する津山峰南クラブでは、ここ30年以上毎年岡山県の津山市からこの大会の観戦のために朝早くからやってきます。ジュニアの子供たちに年一回いい試合を見せてモチベーションを上げること、自分たちもテニスの頂点をいつも見続けて行く・ということをクラブの年中行事の1つとして行っているのです。その中からここ数年国体選手も出しています。ジュニアでも白子に行く代表の子も今年は出ました。岡山理科大高で3年間連続でインターハイに行った選手もでました。地方で、本当に見たいという気持ちで遥遥純粋にやってくる人たちにしっかりと見ていただきたい。そんな気持ちがあるのですこの大会は。そんな中で割と早めに進行しました。また久しぶりに観客と選手が同化した試合となっていました。残念ながら、昔の一球ごとに体育館が割れんばかりの歓声と拍手、そして静寂の繰り返し・・そういった試合にまでならなかったのは、ひとつはテニスが展開のスポーツから技術力の優劣を競うスポーツに変わってしまった為でしょう。いわゆるダブルフォワードでチャンバラとなってパンパンパンで決まる。ボレーボレーが2-3本で終わらず10本以上続けばそれはまた技術力が異常に高いので、我々のものとは違うでしょうからそこまで行けばまた見る価値もあるのです。でも自分たちがやっているものと余り差を感じないので若い子達は感動しない。年配ベテランは試合に展開がないこととダブルフォワードを打ち崩すだけのストローク力が無い後衛の技術力の低下を嘆くのです。たしかにそうで、後衛諸君もよく打つのですけど、昔の後衛が点を狙って打ったのに今は大体あの辺りというコントロールで打っていると思うのです。カットサーブの返球も驚くほど上手いのにどうしてもっとその先の厳しさを追求しないのかもう一歩先のスピードをコントロールを追求しないのか・それが僕には不満です。上手くなっているように見える若者たちが見えないものへの挑戦をする貴さをやめてしまっているのです。トップ選手は孤独です。色々な人たちから目標にもされるでしょう。尊敬もされるでしょう。反面批判もされし、謂れのない中傷や悪口が聞こえてくることもあると思います。でもそんなものに負けて欲しくない。自分が求めているものは何なんだ・人より強くなればもう終わりなのか?若い子が出てきた時にやはりトップを守り続けるにはどうするのか?テニスとは順位なのか?もっと崇高なものがあるんじゃないのか・それは、テニスの真実、さらに言うなら運動全般の真実、それはトップ選手でないとスタートラインに立てないものではないのでしょうか?トップになることは終着ではなくホンのスタート地点に立っただけのこと、そこで自分を見失ってしまう人もいれば、本当にいい選手になった人もいます。その差は何なんでしょう。きっと謙虚さと探究心、継続する心、初心を忘れない心、テニスとは何だ・それは空に抜けるようなパカーンという打球の爽快感を初めて味わったあの瞬間、それをいつまでも忘れない事なんじゃないかなと・・最近では思うのです。

今年も全日本インドアの会場で、東日本大震災の復興支援Tシャツを販売しました。今年もボランティアには八尾のコート・体育館で練習している会員・近隣のクラブの皆さん・大学生・ジュニア達が大勢参加してくれました。朝から晩まで声を出して、立ち寄る人たちに一生懸命アピールしてくれます。人の流れは曲がりくねった川のように速くも緩くも同じように流れていきます。時々しか立ち寄ってもらえません。昨年も活動した私は、そんなもんだと思っています。でも期待して初参加の人たちは頑張りすぎる自分と成果とのギャップに焦ってしまいます。ガッカリもしてしまいます。でも、皆さんはこのボランティアに来たのではないのです。ソフトテニスの最高峰の試合を期待を持って見に来ているのです。僕たちのやっていることに一人でも賛同をその場で頂けたら、それはすごい事なんです。それが分かっているだけに当日何枚も買っていただいた方や中高生たちが一生懸命自分に似合う色を選び悩んで悩んで財布から小遣いをはたいて買ってくれたときは、お手伝いの皆なんとも言えずほのかな温かい気持ちに包まれ、ありがとうと心の中で叫んでしまいます。いつの時代でもとんでもなく飛躍した子供や全てを否定した子達がクローズアップされます。でも彼らが時代を動かすことはないのです。いつの時代でもこの人を暖かくさせてくれたこの子達こそが世の中を支えて作っていく人たちなんです。僕たちもそういった人の流れを切りたくないし、いてくれることにこの上ない安堵感を得るものなんです。ボランティアや支援はしている間に何時しか、人から支援されていることに気づきます。人は一人ではない、人を助けることは自分を助けることと何も変わりがないのだと確認できるのです。今日もいい出会いがたくさんありました。みなさんありがとう。僕を助けてくれた皆さん、支援をして頂いた皆さん、その気持ちを今年は確実に東北に届けます。

2013.2.23
2.22をもって退職となりました。36年間の会社生活は過ぎ去れば、ただ昨日入社して今日は一人で門を出ていくという感じです。見送ってくれる大勢の仲間や先輩や後輩達にもいずれはこの瞬間が訪れます。そしてまたその先に向かって歩き出すのでしょう。どんなに内容が濃いものであってもやはりそこには何もなくてただ風が吹いているだけなのだという真空に似た時間の空蝉があるような感覚に襲われます。
 一区切りのついたこの後にさて何をするべきなのかと考えてしまいます。ソフトテニスは仕事をやっていく上では無くてはならないものでしたし何時しかそちらに大きなウェイトが掛かるようになっていきました。皆さんは私が仕事を辞めればテニス三昧だと言われるしそう思っていらっしゃる方も多いのでしょうね。今はただ、少しの間休みたいなという気持ちが強いです。そう思っていた訳ではないのですけど、この土日は肩こりしたり眠気が襲ってきたりなんとなく全身についていた疲労感が、気力がぬけおちていくような疲れが残っています。

2013.2.7
立春が過ぎるとにわかに陽光が力を増してきます。寒さの中に春があり、光の中のぬくもりにくるまれます。もうすぐです、待ちに待った季節は。
3/3の八尾選抜インドア選手権、今年は外部からの選手を呼び昔の大会のように緊張感を持ち、もう一段上を目指すテニスをやるということ、そして外部の選手はそういった志を持ち続けている方々を呼びました。もちろんこれ以外にも沢山の方々に来て頂きたいのですけど、他での同時開催のインドアもあり、さらにこの八尾市の選手の意識高揚のために開催する大会ですので、半数は八尾の選手のチャレンジを期待して出て頂きます。時間的な制限もありますので、ご容赦願います。選手達はbest4の一角に食い込めるように皆さん頑張ってもらいたいと思います。
選手;小早川・鶴岡/中村・松村/松尾・御内/高橋・東山/堀内・蔀/堤下・高原/東西田・渡辺/辻井・北口。
この外部からのメンバーは、今近畿、全日本を代表する選手達が集まっていると思って頂いても良いです。自分の位置を確認しどこが違うか、いや大して違わないな・とそういった感覚を読みとって欲しいのです。そこが遠くから眺めるのでなく、身近で感じるということの差です。接しないものは解らない。何度も接していると、自分の位置が解ってくると思うのです。勝つこと、諦めないことについては皆さん強靱な心をお持ちです。最後の一本まできっと決して諦めることがない・そんな試合が展開されることでしょう。春先から大いに楽しめる試合になるであろうと喜んでいます。

2013.2.6
時間はどんどん過ぎていきます。会社での仕事もはや終盤第4コーナーを回り最後の直線の後数メートル・・です。仕事が終わるというのはこういうことなんでしょうか?川が海に入る直前は流れも感じられず止まっているような感じですね。それに似た時間を今享受しているのではないのかな・
最近世間を騒がしているのは、スポーツ指導と暴力の問題ですね。大阪の高校でバスケキャプテンの自殺が指導者の行き過ぎた暴力であったと・・そして次にオリンピックの柔道選手達が大挙して監督への暴力に抗議、そして昨日の新聞を見るとあちこちの中学高校大学などスポーツ団体で暴力行為があり問題化されています。これらの意味するものは・・単純なものではないと言うことを教えてくれています。経緯を見ていると、暴力行為は起こっているけど全て黙認、悪くいえば共犯ですね。平たくいえば、暴力を受けている本人の周りにいる学生なら同級生、社会人ならクラブ員、そして周りのコーチ、家族、組織を形成している構成要員の全てが、共犯だということです。しかしその意識が誰にもない。殴る行為、行動が全て間違っているとは僕は思いません。絶対ダメだ・ということではなく、信頼が厚い人間と人間の間にその信頼を裏切る事象が生じた時、慈愛を持って叩くことはあると思います。殴るのではなく叩くのです。慈愛がある叱り方と憎悪・悪意・本人の自己満足による殴るという暴力行為は違います。だから指導者は滅多に手を出したりしてはいけない・生きるか死ぬか、もちろん選手・監督生命をかけてやるくらいの覚悟が必要なのです。この行為で自分がやめなくてはならないかも知れないが、それよりもそいつの人生やそいつとの関わりが重要だと思った場合、その行為に及んだとしたら、誰にも止められないと思います。そして心は伝わると思うのです。それは人と人との信頼の上でのムチだと思うものです。しかし、今回の話は日常化している暴力のようです。殴れば怒っている、笑えば満足している、そんなON-OFFの単純な心の指導で複雑な心理戦を要するスポーツの指導が出来るのかと疑ってしまいます。スポーツは単純なようですが実は非常に奥深く、真理を究めるのは大変なことだと思っています。例えば、100m陸上の華ですが、どうしてあの単純な競技に皆が一喜一憂するのでしょう。今ではバルト、ちょっと前はカールルイス、日本だと飯島とかいましたね。走るだけ10秒間のドラマ。そこには長い永い苦悩の末辿り着くものがあるようです。教えにいっていた高校の顧問がソフトテニスでなく陸上100mの選手でした。・高原君,100mは短いと思ってるだろ・でもその距離がワシには果てしなく遠い距離なんだ・今でもきっと走りきっていないんだろうと思う・。それは真剣に向き合った人のいう言葉でしょう。100mのスタートラインに着くまでの体の作り方、最大限のパワーをその10秒に賭ける為の食事・睡眠・トレーニング・メンタル・そして予選を勝ち抜き何本も走った後のファイナルのレースのスタートラインに着くまでのその緊張感・開放感のアップダウンの激しさ、それを支えるメンタルのタフさを鍛える修養、それらをクリアーしてそこの場所に立つのです。ましてやオリンピックとなると数限りない国内レースを戦い勝ち上がってきているのです。それは凄いとしかいいようがありません。そしてスタートライでの精神統一、スタートのタイミングの取り方,10mまでの足の幅、歩数足腰の位置、手の上げ具合・・・などなど、きっと100mの間には僕たちが想像も出来ないような無限時間との戦いが存在しているんでしょう。
それと同じようにソフトテニスでも1本のボレーの感覚を得るまでに一体どれだけの時間を費やしてきたことでしょう。しかし今でも会心のフォアボレーは一本も打てていません。それくらい自分の技術の低さには恥じ入ってしまうものなんですが。やはり練習していないなと思うのです。左利きはどうしてもバックで打つ機会も多く、そこを攻められますから必然的にバックを多く真剣に練習します。またバック側は割と素直にラケット面がつくれるのできれいに取れるようになります。そこが落とし穴なんですね。フォアが甘くなってしまう。それで今はその技術に対して無限時間の挑戦をしているのです。いつ終わるかは見当も付きません。

2013.1.29
岡山から遊びに来ている今年米寿の母親が土曜日から体調が悪くとうとう今日医者に行ってみることにしました。実は実家のある岡山県美作市には専門医が少なく、古くからある町医者さんに頼っているのが実情です。そこは内科、小児科ですが、年を取ると耳や目、歯、など基礎的に必要な部位が衰えてくるため専門医が必要となってきます。大阪に出てきた理由の一つは、歯を治したい、耳が遠くなったので意思の疎通が出来にくくなり、何とか治したいということです。八尾ではそれこそ歩いてゆける・とまではいかなくとも車なら数分で大体の専門医にいくことが出来ます。評判を聞いて選ぶことも出来ます。そういったことが80歳を超えたシニアには大切です。老後は空気の良い地方で農業をしながら無農薬で野菜を作り、鶏や豚を育てながら暮らしたい・・というのも確かに一つの夢で、生き甲斐で、目標である人もいるでしょう。立派な考えですし、自分の将来に設計をされているのはとても良いことです。ただ、そこには都会にはないものがあることと引き替えに田舎にも無いものがあるのだということを知って欲しいのです。それは健康な時にはわからない不便さなのです。誰もが便利な生活を求めています。豊かな暮らしを求めています。そして快適な生活を望んでいます。理想はそのどれもが満たされた街で暮らすことです。でもそういった計画都市を創ったとしてもやがては亡者どもにシロアリのように食いつぶしてやはり廃墟が残るだけなのです。今地方都市のかつて栄華を極めたメインストリートがゴースト化している現状を何と考えますか。私たちが子供の頃・そして学生の頃は考えもしなかった減少がまさに目の前にあります。人が集まらなくなった都会は捨て去られるのだと。それは田舎の過疎地にも匹敵します。都会の過疎地が数多く存在しているのです。これは車社会の発達で、歩いていける場所でなくて良いあるいは公共交通機関を使う必要がなく移動できて、大量に一度に購入ししかも同じ場所に多様な店舗が並んでいる商業施設があればいい、しかも選択できるように同系列の店舗が多数存在するショッピングモールが今の主流なのです。これはまさしく都会型ではなく個人主義的な若者健康体の購買を意識した世の中の展開に他ならないのです。
実はこれはこれからの社会にはマッチしない形態です。それは高齢者やシニア前期の人たちは車を使ってわざわざ出て行くのを好まず、できれば近くにある便利な街の店舗で購入したいと考えるでしょう。きっと30~50代の人々には今のシステムは受け入れられるでしょうが、それ以上の人々はなかなかハードルの高い施設なのです。これから高齢者が四人に一人という時代、近くにある商店街の復活は必然だと思うのですが、いかがでしょう。

2013.1.28
先週末からの寒波は今年を象徴するようなものです。東北や北陸・山陰と大雪と暴風に見舞われています。気象観測始まって以来の・・というアナウンサーの声がテレビから響きます。大阪は寒くてたまらないのですけど、まだそういった日本中の厳しさを肌で感じるまでの危険はありません。そこが古来から人が集まり栄えてきた理由なのでしょう。瀬戸内沿岸を古代人が住処とした理由もよくわかるものです。
人はちょっとした気候変動で狼狽えます。暖かい地方に雪が降ればあっという間に大渋滞、電車は止まり歩行者は転び救急車のサイレンの音が街に響き渡ります。冬用タイヤの未装着では長距離や高速の走行はできないばかりか、早めに道路が封鎖されてしまうのです。今年はやはり関東は雪が降り寒いのだと実感しました。

2013.1.23
一月の日差しは次第に強く明るくなっていきます。先日土日と数時間ですが屋外でテニスをしました。夜になったら顔が火照っています。これは紫外線が強くなっていることを示しているのでしょう。何となく明るい方向に向かっていることを感じられる今は寒いけれども嫌いではありません。



2013.1.13
1/12は試合が終わるとそこそこに大阪へ引き返しました。1/13は岡山で30年ぶりに中学校の同窓会が行われます。今年は60歳ということでこの機会を逃せばもはや会うこともないかも知れません。そして会う機会がこれから生まれるか、そうでないか・・その際でした。この会を私は楽しみにしていました。人はなぜ過去を忘れないのでしょう・・と思っていました。しかしそれは違っていました。会ってみると分かります。過去は過去でしか存在できないのだと。60歳で出会った我々はもはや昔の友人ではなく今を生きているのです。昔の友人の顔を忘れていました。声を忘れていました。どんなことがあったのか、どんなことをしたのか・・それももはや半分は忘れています。あちこちで仲の良い集団が輪を作っています。それはきっと何年か毎に会っていたのでしょう。そういう人たちは今を生きる友人なのです。中学の頃は私は女の子と殆ど話してなかったのだと思いました。話をしようと思ってもそんなに話題がないのです。昔の思い出もない、そう何もないのだと認識してしまったのです。男の友人はそうではないのです。悪いこともいい事もクラブも試験勉強も女の子の話も当時はホントにたくさん話しました。彼らとはやはりずっとやっていけるのだと思っています。女性に会うことに何だか会いたいような会いたくないような・・と感じていたものはこれだったのかもしれませんね。僕たちが抱いていた幻想が彼女達を理想へと押し上げていたのでしょう。もっと話せればよかったですけど、家路を急ぐ人たちも多く3次会の頃にはすでに8名になっていました。こんなイベントの時私は中座することはあまり好きではありません。勿体無いじゃないですか?せっかくこんな機会を作ってくれた人がいる・・そういうことだけなのですけどね。
ただ、本当に会いたかった人もいます。行方不明になっていたり、体調を崩していたり、転校をしていたりしてもはや会えないかと思っていた人たち。彼らとの再会は本当に嬉しく、これだけで十分の幸せを感じました。そして先ほど言ったように抱いていた幻想もあったのだと、ほろ苦く分かってしまったことなんか・・言いようのない喪失感でした。

2013.1.12
試合が始まりました。韓国のシニアの方はウエアとかにあまりこだわらない人が多く、見た目はどうなんだという感じなのですけれども、対戦してみるとファイト、ガッツはあるし意外なプレーも多いのです。綺麗に片づけてしまおうとすると痛い目にあいます。またソンさんのように実業団で昔やっていた人は形も素晴らしくテニスの技術や戦術も日本のトップと比べても全く遜色のないレベルです。おそらくソン・ヨンチョルさんは正規のペアと組めばシニア50(52歳)では全日本シニア選手権でもベスト4あるいはそれ以上の力であろうと推測されるのです。私たちはシニアの国際化を推し進めていきたいと思います。今はシニア協議会が行うアジア選手権それと、大阪庭球倶楽部が台湾とやっているシニア対抗戦、われわれの参加している韓国大統領杯と日韓交流大会くらいがすべてなのでしょうか。このうちアジア大会は日本からは全日本シニアの優勝者それと準ずる推薦を受けたものに出場枠が限られています。韓国大統領杯への参加も今は私的な繋がりから選ばれている選手で構成されています。台湾との交流戦、日韓交流大会も韓国ソン氏と日本の新沼氏の関連メンバーで行われているものです。アジア大会を除けば、まだ私的な交流戦の域を出ていません。これから更に発展させていくためにはもっと広い目で組織の再編成が必要なのではないでしょうか?それと、是非とも全日本シニアに外国選手の参加の門戸を開いて頂きたい。なぜダメなのかの理由が見つかりませんん。一般男女は天皇杯皇后杯が既に国外に門戸が開かれています。アスリートとしての戦いは切磋琢磨して力をつけるべきですしそのほうがより高い理想を追求できるでしょう。シニアになると親善や国際交流をしながら文化貢献をするという目的もあるでしょう。何か理由があって他国を訪問し、その文化に触れてその国の人を知る。島国で自国の価値観で全ての世界の人たちの価値を同一視するのはそれこそ変な軋轢を生むだけではありませんか?われわれシニアは生きてきた社会で摩擦を低減する知恵を持って他国の人たちと交流しながら次世代にバトンを渡していける社会間貢献ができると思っています。日韓親善の大会の中でさえ、彼らが見せる小さな違いを感じ取ることもできます。それを受け入れ、自分たちの文化の違いを理解して頂けるように接することでもっと多くの人たちにいい影響を与えるのではないでしょうか?それと同時に、やはりシニアスポーツの社会的世界的な発展のため一歩でも進んでいければ、シニアの楽しみも増えますし、健康で老いていける社会を作る一助にもならないでしょうか?
交流大会50のクラスは12ペアで3チーム4ブロックのリーグ戦です。それぞれに韓国ペアが1、交流会メンバーが1、地元埼玉のペアが1と大体の構成になっています。我々のとことは先ず韓国李・原(日本)④-2佐藤・栗原(埼玉)で混成ペアが勝利。李さんは前回も会っていますが、足がとても速くフォアバックともに素晴らしいコントロールの選手です。原さんも動きの速い鋭い前衛ですから手ごわいなと思ってました。それよりも埼玉ペアは前後衛ともに打球力があり、前衛技術のしっかりしたペアで自分的にはこちらのほうが嫌な感じがしていました。相手は1戦やっています。シニアは実力の差は殆どないといっても過言ではありません。ですから、入り具合や気の持ちようで知らない相手にすっと負けてしまうこともざらです。後で聞けば外には出ていかないが実力者だったと。。昔からソフトテニスの愛好者は大勢います。そしてたくさんの上手かった人たちがどこかで密やかにテニスをしていても何も不思議はありません。その人たちが思い立って試合に出てくればどうなるか分からないのが本音です。このペアも名前は聞いたことはあるような気がしますが、やったことはありません。やってみると案の定良く打ちます。新開氏が結構打ち込んでも簡単に同じくらい打ってきますしバックに走らせても上手く処理します。これはもつれるかもなと思ってました。サービスキープで進みます。2-1から何とか3-1まで持って行きましたがそこからが悪い。簡単に決めてリードして勝ちだと思った瞬間2-2になったりレシーブミスを続けてやったりで今年度の悪いパターンが再燃しそうになりました。失敗を取り戻そうとお互いのく守備範囲のイージーボールを簡単にミスに行ったり、結局心に余裕がないのですね。だから本質的に信用することが今はできていないのです。長く組んでいるとパートナーの良いところもわかってきますが悪いところも同じくらいたくさん見えてきます。そこをカバーしたり、改善したりして次の試合に臨まなくてはなりません。その努力が今の我々には欠けています。ちゃんとした不動のペアになるためにはそういった小さなことを積み重ねていかなければ勝てませんね。弱点はどんな人にでもあります。でもそこに行かないような配球やポジション取りをこれでもかというくらい頭に叩き込んで試合に臨むことをこれからの課題としましょう。信頼が全ての始まりですからね。ファイナルになってしまいましたが、そこからは少しずつ落ち着き相手のミスもあり7-3で勝利。やれうやれです。途中で足に違和感が出たとかひじが痛いとか言われてもどうしようもないです。私はコートに入ったら普段と同じようにやることを心がけます。足が折れても普段と変わらないテニスをして欲しいのです。無茶をやる時は合意の上でやります。後衛が動けなくなったらもうどうしょうもないですからね。また行ってくれと言われればそれは負けても仕方がないと・・ラケット担いで行きますが。
次は李さんペアです。ここでは新開氏がかなり落ち着きを取り戻したので、自分のペースで動けました。④-2で勝ちでしたが、本当に李さんは素晴らしくコンパクトな振りと身軽さでコートを自由に飛び回ります。埼玉ペアが負けたのもよくわかります。前衛の原さんも切れの鋭くいい前衛さんです。この日は太陽が我々の味方をしてくれたようです。相手も見えなかったポイントが結構ありました。また次回韓国でお会いしましょう。
次の対戦は新沼・鈴木ペア。前年の韓国大統領杯優勝ペアです。新沼さんも気合が入ってます。最初のポイントで長いラリーからサイドへ打ったボールを綺麗に鈴木さんにボレーを決められました。これで新開さんの危機感に火が点きました。気合が急に感じられボールが締まってきたのです。誰もがいい試合をしようと思います。いいポイントをあげるとしかしながら相手を本気にさせてしまうこともあるのです。早い段階で相手が調子を出してしまうともう手のつけようが無くなってスーッと負けてしまうことがあります。そこが難しいのです。お互いに気合と調子が高調してしまう決勝とは違いベスト4までの試合は調子が水物であることが多いのです。入り方や相手を調子出させないようにしながらこちらのペースに持っていくことが大切だと思っています。打ち始めた新開氏はもはや止めるのは難しい相手となっているようでした。新沼さんは昨年の全日本のように気合は入っているものの技術的な調子はまだ上がっていないようでした。打ってくれれば前衛は自分のペースで振る舞えます。④-2で勝利。決勝の相手を決める菊池・本田vsソン・セオの試合が行われました。肘を故障しているソンさんですがやはり韓国No.1後衛です。決して技術が高いとは言えないSEOさんをつけて殆どタイの試合をしています。菊池さんもさすがの持ち味の粘りで右に左に走り短いボールも前衛にかからないように必死で繋ぎます。本田さんは思ったよりストロークがよく元は後衛かなと思います。もう少し勝負に出ていくことができれば勝ち易いかもしれません。ソンさんと菊地さんのストローク合戦は確かに面白いものですが、それはその中に前衛が入れていないことを意味します。振り回される菊池さんがたまらず甘くなったボールをSEOさんに止められます。ソンさんペアの失点の多くはチャンスボールをネット・アウトでした。最終的にはミスの多かったソンさんのファイナル負けでした。
決勝は10分後に行われました。冬の休憩は難しいです。体の冷えが考えられない故障を引き起こします。天気のいい素晴らしい日でしたが、天高く地上に暖気が溜まることはありません。輻射熱は地面に吸い取られます。体を遠赤効果で温めることもありません。一進一退で進んでいたとき突然本田さんが5分のタイム、足がつったようです。その後2-1から2-2に挽回追いつかれました。準決くらいから新開氏が足に違和感が・・と言ってましたが、急につり始めたようです。サポータを巻き今度は3-2とリード。長く続いたゲームを落としファイナル。ここで菊池さんの足がつり5分休憩。ファイナルは1-3までリードされる。挽回したが引き離され3-4となったところで新開氏が2回目の痙攣。5分とったのでこれで双方次にタイムすれば負け。しかし後少し。見ている方はどうだったでしょうね。5分過ぎて審判に促されて試合再開。新開氏と相談・・全部行くぞ!!・・。とりあえず私のレシーブから始まりました。あまり打っていなかったのでセンターへ後衛側に逃げていくレシーブシュートを菊池氏がはじき4-4。次の新開氏のファーストサーブをポーチ。5-4。次を取り6-4マッチ2本。レシーブはアタックと決めていたのですが二人共力んでバックアウト。6-6。次の私のサーブでエース7-6。次のサーブをいいレシーブされて7-7。次は相談の上ツイスト。一本目は綺麗に決まったのでした。私のレシーブから長くラリー。ゆっくり本田さんをおびき出し、クロスへゆるいツイスト気味のボールでゲームセット。9-7でした。

まあ、昨年は決勝で負けた試合が考えられないほどたくさんありました。今年は自分に負けないように努力しようと新開氏と話したことでした。

2013.1.11
東京に新幹線で出かけていきました。明日は日韓交流ソフトテニス大会で埼玉県の戸田市であります。明後日の1.13に岡山で同窓会があるため明日一日で大阪に帰ります。日帰りでは申し訳ないので前日に宿泊して韓国の選手さん達と交流しようとやってきました。しかし一日が勿体ないので、大学時代の先輩とあうことにしました。まだ化学屋として半人前でしたが、いっぱしの研究者のように生意気に振る舞っていた学生の頃知り合った気の合う先輩です。11時半に着いたのですが昼飯でもと、新宿の近くのそば屋さんへ。東京のそば屋さんは夜は一杯飲み屋さんが多く、昼間から結構宴会もできます。せっかく10年ぶりくらいにあったのだからと昼間から飲み始めました。職に就いている頃はなかなか当時の実態を話すこともありません。私ももう数日で退社の身ともなれば少しは気楽に話せます。色んな世の中で起きた矛盾に関する幻滅や理想とのギャップなどについて同じような経験をしてきたのだとわかります。彼も私も同じ化学の出身ですが、入社と同時に私は研究に彼は営業にと道は分かれました。全く違う人生でも根底に流れる基本的なものは変わらないのでしょう。三つ子の魂百まで・・かも知れませんね。あっという間に時間は流れ17時半に。約束までに何とか間に合ったことでした。

宿泊は東浦和からすぐの「健康ランド武蔵野」でした。スーパー銭湯に宿泊施設やスポーツ施設が付いている結構大きな都会の温泉といったところですね。駅からはスポーツ店の村瀬さんに迎えに来てもらいました。着くとすでに夕食(宴会かな?)が始まっていました。挨拶しようとしましたが、やっぱりアンニョンハセヨ以上は言葉が出てきません。・・せっかく少し勉強したのですけどね。まあソン・ヨンチョルさんは日本語も話せるし通訳は御願いできますので簡単な挨拶と紹介を頂き食事を・・と思ったのですが、考えてみればさっきまで食べていてあまり入りませんね。胃も正直なモンです。言葉はあまり通じないのですけど、何となく雰囲気でわかります。ボディランゲッジというのも人の意思の伝達としては優れているものでしょう。そして我々の世代は漢字も勉強しています。自分の名前は漢字で書けますし、意味もわかります。韓国は表意文字の文化の国でした。しかし、いまはハングル文字に統一されて表音文化の国に変わってしまいました。今はまだ過渡期ですが、やがて時間の問題です。文字に多様性があればそれを理解したり組み合わせたり、意味を考えたりと最初は大変ですが、実に深い心を養うことができると思うのです。私はこの日本国の文化は素晴らしいと思うのです。漢字を取り入れ平仮名を発明し、更にカタカナを生み、最近では絵文字まで取り入れるこの柔軟性。英語やその他の言語文化も取り入れて尽きることを知りません。この柔軟性こそが日本の本質だろうと思うのです。そういったことを根底においていながら他国とつき合っていけばいいでしょう。・・と思います。韓国は他国の迫害から身を守り耐えて生きてきた繰り返しの歴史ですが、四方強国の中にあって独立性を保ち民族の誇りも高く、私が見たところ隣国でありながら心はアメリカに近い。日本とは基本的に違う歴史・国の存在感・観が国民性の差となって現れているのだと思います。
ドライな心を持っているかとの反面非常に明るくノリの良い人たちでもあります。歌を歌えばみんなで大合唱・踊り笑顔で心底はしゃいでいるようです。またいつもおみやげを欠かさない国でもあります。相手がするしないはどうでも良いようです。彼らはそうするものなのです。日本人はしてもらえばお返しをという相互対等性みたいなところがあります。田舎では冠婚葬祭に使われた費用を細かく書き留めてそれと同じ金額を同じ行事に使っていました。そして母はいつもそのことを気にしていました。多くても少なくてもいけない・・ウットオシイことではありますが、そうして過去から生きてきたのです。ただ最近ではその習慣もなくなりつつあります。日本文化のムラ社会がとうとう本当に崩壊が始まり浸透しつつあります。
今回は宴会で前回おいでのシムさんとカンさんの名前(姓)を覚えました。でもホンとは名前を覚えないといけないですね。韓国は特に・・同じ名前が多いですから。。

2013.1.9
あと30日会社に出勤したら、後は行かなくてはいけない、という義務から解放されます。そんな生活は小学校に入学して依頼ついぞ経験したことがないので、不安でもありますが楽しみでもあります。光に当たったものの姿を光景といいますが、見慣れた風景が新鮮に感じられることでしょう。小学校や中学校の時、どうしても持っていかなければいけない物を忘れた時、通ったことのない時間に通学路をとおれば、何となく知らない世界に足を踏み入れたような不思議な気分になったことはありませんでしたか?僕は田舎で育ったので、その道はとても寂しく、例えば春のぽかぽか陽気の日でさえそこには得体の知れない何かがいるような、何かに見つめられているような・・どうしよう、ここは来ちゃいけない世界だったんだ・とそんな空気に押し出されてしまったものでした。自分の記憶にない光の世界はとてつもなく不思議なものです。それは知らない土地に旅をして、そこがやはり自分のものではない世界だと居心地の悪さを感じ、しかしながら新鮮さという魅力の諸刃の妖しさにも似た感覚に陥ってしまうのと同じものです。人は旅にあこがれ旅をします。でも時間を少し変えてみるだけで、いつもの土地も風景もそこは不思議の国のアリスと同じような体験ができるようなそんな気がしています。


2013.1.7
新年明けましておめでとうございます。今年は巳年で私は60歳年男となりました。60年も病気もしないでやってこれたのは丈夫な体に生まれた幸運と危険な事象にであわなかったという運につきます。体が大切であるということはここ2-3年特に感じることではあります。
常々、仕事と趣味がどちらも充実させていきたいと考えていましたが、それも何とか達成できて今日を迎えられました。この二つも自分一人では殆ど成り立たず人と関わり良い関係でいられることでやっていけます。人は幸運と周囲の支えで生かされているのだと思います。今年も自分が生きていくことにはぶれなく誠意を持ってあたりたいと考えます。
昨年末から今年の初めにかけて言葉というものと文字というものの怖さについて考えさせられることがありました。ですから実際はこの文章を発信することについてもある意味では非常に怖いなと思っています。よかれと思って言ったことややったことが、相手の人とすれ違ってしまうことがあります。発信する側はプラス思考ですから間違いは無いという確信の上に立つ意見です。しかし受信側はある意味では非常に無防備で予習もできていない授業を受けていきなり質問を浴びせられるのと同じことなのですね。ですから、その時落ち込んでいたりしてマイナスの極限にいれば発信側の言葉が鋭い刃にも思えることでしょう。人はそこでその相手と充分に話し合える関係であれば、誤解を解くこともできるでしょうが、年齢や地位やある意味で存在する格などによって話し合いができない場合は、次第に疎遠になってしまうことも充分にあり得るのです。言葉や文章は時によってそういった害や悪影響を与えるものだということを思ったのでした。
しかし、僕は発信し続けようと思います。怖いからやめてしまえば問題も起きない代わりに得られるものも無くなります。失敗すればやり直せばいい、誤解されれば誠意を持って対応すればいい、そう思います。お互いが理解するまで話をすればいいのではありませんか。。それが言葉というツールを頂いている人間の価値ではないのでは無いでしょうか?
言葉や文章が人を傷つけることがあるかも知れない、しかし意図してしたことでなければ許されると思います。特定の人をターゲットにすることはそれは悪意です。ただこの70億人のすんでいる地球で、全ての人を考慮して言葉を発信することなどできませんし、沈黙は金などといって家から一歩も出ない生活などできようもありません。それこそが人が人でなくなる瞬間です。現代の若い人たち・・だけではありませんが、人と交わることがとても下手です。下手というよりも、すすんで交わりを拒否しているようなところがあります。一人でも生きていける、友達なんかは必要ない、更には結婚なんかしなくてもなんの不自由もないからしない。。それこそが人間の集団自殺プログラムにも等しいのではないでしょうか?僕の大学の友人にも子供を世に出す自信がないと言った人がいます。・なぜなら自分の兄弟や知人関係を見ていると、すぐに離婚したり、鍵っ子にしたりして子供が幸せになるとは限らない・・と。でもですよ、それは他人のことですよね。自分がそうでなく育てていこうということではないです。もはや還暦の我々は子孫をどうしていくという時代は終わり、その友人も結局は子供を作らず夫婦2人で暮らしています。それも一つの選択か・・と思います。他人のことはどうでも良いやと片づけることも簡単です。しかし本当にそれが良いのかな・・なんて考えてしまいます。